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私の被爆ノート

感覚まひ 恐怖なく

2017年1月19日 掲載
青山 照弘(70) 青山照弘さん(87)=長崎市= 当時15歳 三菱電機長崎製作所本工場勤務 爆心地から2.5キロの長崎市平戸小屋町(当時)で被爆

長崎市平戸小屋町(現丸尾町)の三菱電機長崎製作所本工場で魚雷用モーターを作っていた。国家総動員の中、社員だけでなく、学徒動員の女学生も三交代で働きづめだった。

8月8日は夜遅くまで勤務し、浪の平町の自宅に戻った。翌朝は眠気をこらえ、7時半の始業に間に合うよう家を出た。だが、工場での作業は空襲警報で中断。警報が解除された午前10時ごろ、工場の敷地内の防空壕(ごう)を出て仕事に戻った。ふと見上げた空は、よく晴れていた。

ハンダ付け用の鉛を溶かそうとしていたときだった。突然、閃光(せんこう)が走り、ごう音がとどろいた。とっさに伏せたが、落ちてきた屋根の破片で頭に切り傷を負った。構わず見上げると、屋根の骨組み越しに薄暗い空が見えた。周りでは女学生たちの悲鳴が響いていた。

避難した防空壕には、浦上方面から全身をやけどした負傷者が次々と入ってきた。「(浦上にある社員寮の)城山寮は大丈夫だろうか」と同僚と心配した。壕内では夕方に2人が亡くなり、木材を集め火葬した。初めての経験だったが、感覚がまひしていたのか怖さは感じなかった。

そのまま夜を明かし、10日に帰宅。母は私が死んだと思っており「元気やったか」と喜んだ。数日間、近所の墓地に蚊帳を張って母、姉、弟と家族4人で過ごした。

13日、浦上方面の社員の安否確認のため、上司や同僚と向かった。城山寮は道路を挟んで南寮と北寮があったが、どちらも全壊。寮をつなぐ地下通路の中に、遺体が折り重なり合っていた。すでに腐敗が始まっており、わびながらスコップで外にかき出した。鎮西学院中(現活水中、高校)にあった三菱電機の疎開工場では、学徒動員の女学生が何人も工作機械の下敷きになって息絶えていた。

15日の玉音放送は自宅で聞いた。意味はよく分からなかったが「これで生き延びられる」とほっとした。

16日に出社命令があり、全焼した三菱電機の鋳物工場(現茂里町)で遺体を捜索。出口を目指していたのだろうか。多くは出入り口に頭を向けて倒れていた。3日間で100体ほど荼毘(だび)に付した。

あまりに数が多いため、トタンの上に遺体を並べ、重油をかけて一度に20体ずつ燃やした。中には爆風に飛ばされたのか、工場の鉄骨に引っ掛かったままの遺体もあり、哀れだった。

<私の願い>

戦後は火力発電のタービン製作などに携わり、日本の復興と経済発展に役立とうと全力で働いてきた。これまで日本が戦火を経験せずにこられたのは、平和憲法があったためだと考えている。9条を変えるような憲法改正に反対する。

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