自宅は橋口町にあり、家族4人で仲良く暮らしていたが、妹美佐子=当時(3)=がおなかをこわして竹の久保の病院に入院し、母ツユ子=当時(28)=が付き添っていた。父静馬=当時(35)=は三菱長崎兵器製作所に働きに出ていたため、私だけ小菅町の高台にあった母方の祖父母方に預けられていた。
8月9日は、10歳上の叔父と一緒に長崎港を望む縁側に寝そべっていた。警戒警報が鳴ったが、もう慣れてしまって避難もしなかった。警報はやがて解除されたが、突然、周囲がぱっと明るく光った。数秒後「ドーン」という音とともに強い振動が襲ってきた。何事かと立ち上がったところ、爆風で2~3メートル吹き飛ばされ、屋内の壁に打ち付けられた。
私は幸いにもけがはなく、すぐに外の防空壕(ごう)に祖母や叔父と逃げ込んだ。夕方、防空壕を出て港や街が一望できる近くの峠に登った。市街地で赤い炎がすごい勢いで燃え、黒い煙が上がっていた。自宅や病院のある方向だった。独りぼっちになってしまったと心細くなった。
だが翌10日午前、母が妹を背負い、祖父母方にたどり着いた。母は髪を振り乱し、衣服はぼろぼろで幽霊のようだった。妹はがっくりと首が折れ、身動きひとつしなかった。病院が倒壊し、2人ではい出してきたそうだ。
母は妹を祖父母方に預け、すぐに父を捜しに行こうとした。私は母と離れるのが怖くて一緒に連れて行ってもらった。爆心地方面に向かう途中、燃えてしまった頭蓋骨の目や鼻から煙が出ていたのを覚えている。黒焦げの牛や馬の死がいが転がり、ものすごい臭いがした。父は、母と1カ月ほど捜し回ったが、結局見つからなかった。どこかで亡くなったのだろう。
妹は原爆投下4日後の13日に亡くなった。顔が真っ白になり、目玉がぐるんと裏返ったのが最期だった。翌日、叔父たちが近くの畑で木を組んで遺体を焼いた。母は来なかったが、私は立ち会った。ちゃんとした形で送ってやれなかったことがふびんでならず、今でもつらく悲しい。
私が小学生のころ、母が「(父や妹と)一緒に死んでしまえばよかった」とよく言っていた。当時は幼くて母の気持ちを理解できなかったが、今はよく分かるような気がする。私も「生き残ってよかったのか」と思う。
<私の願い>
5年前に胃がんが見つかり、生きているうちに被爆体験を伝えようと昨年から小学校などで語り始めた。原爆投下や戦争は二度とあってはならない。人の物を奪ったりいじめたりする心が戦争につながるので、それらをなくさなければならない。