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私の被爆ノート

肩寄せ合う女学生

2016年12月22日 掲載
池田 匡(88) 池田匡さん(80)=西彼長与町= 当時8歳 上長崎国民学校3年 爆心地から2.5キロの長崎市西山2丁目で被爆

夏休みの蒸し暑い日だった。近所の友人宅に10人くらいで集まり勉強をしていた。終わって外に出ると、誰かが声を上げた。「何か落ちてきよる」。見上げると、落下傘がふわふわと風に流されていた。「何だあれ」と言い合っているうちに見えなくなり、部屋を振り返った瞬間、辺りが白っぽく光った。すぐに友人の母親が「伏せて」と叫び、みんなで玄関に飛び込んだ。大きな音とともに、爆風が背中の上を吹き抜けた。子どもたちにけがはなかったが、友人宅で電気工事をしていた男性は、体中にガラス片が刺さり血だらけだった。

それぞれ急いで自宅へ帰った。両親も当時2歳の妹も、隣組の防空壕(ごう)に避難して無事だった。家の前にある県立長崎高等女学校に爆弾が落ちたと思っていたが、違った。

自宅は、浦上方面から西山を越えて馬町へ下る道に面しており、1時間ほどたつと30、40代くらいの男性が1人通りかかった。「けがはないですか」と聞いてもそれには答えず、「浦上は全滅のようです」と言い残し、足早に去っていった。その後、続々とひどいやけどを負った人が避難して来た。母親や近所の女性たちは薬の代わりに食用の油を塗って手当てをし、それがなくなると、カキやビワの葉を煎じた汁を傷口に塗った。

夕暮れ時、女学校の校門に、生徒2人が肩を寄せ合ってたどり着いた。けがをしていたのだろう、1人は両目を白い布で覆っていた。「着いたよ、学校よ、分かるね」「着いたと? 学校ある?」「ちゃんと立っとるよ、もう大丈夫やけんね」。泣きじゃくる2人に、先に戻っていた級友たちが駆け寄ってきた。当時はしっかりしたお姉さんたちに見えたが、さぞや心細かったろう。あの光景を思い出すと、今でも目頭が熱くなる。

女学校の理科教諭だった父は、三菱兵器製作所大橋工場に動員されていたが、赤痢のため7月中旬に入院。8月9日に退院する予定だったが、8日に患者を病院に運んできた人力車に乗り、自宅まで運んでもらった。偶然が重なり、父は助かった。

父の静養のため14日、家族4人で大瀬戸の母の実家へ向かった。父はつえをつき、母は妹を背負って歩いた。長崎駅周辺はがれきの山。牛や馬の死骸が転がっていた。浦上辺りの防空壕には、人の死体が詰め込まれていた。この世の地獄だった。

<私の願い>

戦争という極限の状態は、人から感情を奪い取る。平凡だが「うれしい」「悲しい」と気持ちを表現できる社会が平和。軍国主義の日本は、世界からどう見られていたのだろう。歴史を学び、語り継ぐことの大切さを子どもたちに伝えたい。

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