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私の被爆ノート

やけどで友人「誰や」

2016年11月24日 掲載
井手純一郎(87) 井手純一郎さん(87)=長崎市= 当時16歳 長崎市立商業学校5年 爆心地から1.7キロの長崎市竹ノ久保町(当時)で被爆

8月9日は、学徒動員されていた三菱長崎造船所竹ノ久保製材工場(現・三菱球場)で働いていた。警戒警報でいったん近くの防空壕(ごう)に避難し、再び作業に戻った時、友人に将棋に誘われた。また警報で作業が中断するだろうからと言われ、自転車に二人乗りして工場を抜け出し友人宅に向かったが、途中、弁当を置いてきたことに気づいた。友人には「後で行くから」と伝えて工場に引き返したが、空襲に遭うのが嫌だったので工場にとどまり、一人で材木を切っていた。その後、休憩室に向かい、ランニングシャツと長ズボン姿で腰掛けていた時だった。

「敵機来襲」。叫び声が響いた。窓から身を乗り出し空を見上げて中に引っ込んだ瞬間、ピカーッと雷より強い光を浴びた。顔の右側にむちでぶたれたような痛みを感じ、とても熱かった。生命の危険を感じ、戦争に負けないよう陰日なたなく働いてきたのに神も仏もないと思った。右半身を大やけどした。

城山町の自宅で、母に看病してほしかった。工場の倒れた塀を乗り越えて外に出た。近くの梁川橋にたどり着くと、吹き飛ばされてきた材木が道をふさいでいた。道と、すぐ横の浦上川の境にある塀の上を倒れそうになりながら、ふらふらと歩いた。痛みに耐えられず川のほとりに下ると、朝鮮人の男性が「アイゴー、アイゴー」と泣いていた。

再び歩きだし、偶然にも将棋に誘った友人と会った。吐き続けていたので、背中をさすってあげたが「誰や?」と尋ねられた。顔のやけどで分からなかったようだ。「井手やかね」と名乗ると、友人は悲愴(ひそう)な表情を浮かべ「やられたな。水ばくんできてやろう」と言ってその場を離れた。近くの防空壕で1時間半ほど待ったが、戻ってこなかった。後日、彼の死を知った。

壕の辺りで火事がひどくなり、外から悲鳴が何度も聞こえた。煙が壕に流れ込んできたので、怖くなり自宅に向かった。自宅近くの、爆弾が落ちてできたようなすり鉢状の地面に、全身真っ赤に焼けた女性が倒れていた。

自宅はほぼ倒壊していたが、なんとか残っていた。妹3人は無傷で、弟2人もやけどなどを負っていたが生きていた。母は畑仕事中に爆風で吹き飛ばされたが、石垣で腰を打ち痛めた程度だった。しかし、9月7日までにきょうだい5人と母は亡くなった。放射線の影響だと思う。

<私の願い>

原爆を戦争の道具として使い、勝利の優越感にひたることは許されない。私は生き残ったが、家族を失い苦しんだ。母やきょうだいのことを思うと、もう二度と落としてほしくない。若い人たちにも核兵器の恐ろしさを分かってほしい。

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