戦時中、昼夜となく米軍の爆撃機が飛来し、警戒警報のサイレンが鳴ると、食事中であろうと、入浴中であろうと、就寝中であろうと、全て中断して防空壕(ごう)に逃げ込まなくてはならなかった。ろうそくをつけると爆撃機に狙われるというので、暗闇で息を殺してサイレンが鳴りやむのを待つしかなかった。その記憶がトラウマ(心的外傷)となり、70年以上が過ぎた今でもトンネル式の車庫などを見ると、恐怖を覚える。
自宅があった片淵町2丁目の防空壕は「城の古址(こし)」と呼ばれる丘にあった。男手は出征して誰もいなかったので、朝鮮人に掘らせたと聞いた。市内で標高の高い山には頂上付近に探照灯と高射砲が設置され、毎晩のように敵機を探す光の柱が交錯して見えた。
あの日はよく晴れていた。自宅の縁側できょうだいと遊んでいると、突然、パッと白い強烈な閃光(せんこう)が走った。母親は部屋でコメの配給切符を数えていたが、とっさに押し入れから布団を引っ張り出して私たちにかぶせてくれた。記憶にあるのは光だけで、爆風やごう音は覚えていない。
家の中は家具が倒れ、戸棚の物が散乱し、めちゃめちゃになっていた。ふすまや障子も破れ、ガラス戸は吹き飛んで枠だけが家の外の石垣に張り付いていた。屋根瓦も飛ばされて粉々に砕けて、軒下に雪のように積もっていた。近所を歩くとどの家も同じような状況だった。見上げると、黒い雲が空を覆い、渦を巻いていた。
町の防空壕に避難して、一夜を過ごした。消防団の人は「向かいの西山町に爆弾が落ちた」と触れ回っていた。実際は浦上方面に原爆が落とされ、死の町になっていたことは知るよしもなかった。
飽の浦町の三菱重工業長崎造船所で働いていた父は翌朝に帰宅した。「浦上方面が壊滅状態」「やけどで皮膚が垂れ下がり幽霊のように歩いている人を見た」などと母に話していた。
数日後、大八車に衣類や鍋を積み、家族と親戚と共に現在の南島原市に歩いて疎開した。途中で「戦争は終わりましたよ」と言う男性がいた。両親は「あいつはスパイだ」と話していたが、翌朝に玉音放送があり、日本の敗戦を知った。
9月になり、汽車で長崎市に戻った。車窓から見た浦上は焼け野原で何もなかった。
<私の願い>
戦争は人々の市民生活に容赦なく侵入し、全てを破壊してしまう。県内の世界遺産が話題になっているが、戦時中の記憶を語れる人が少なくなる中、防空壕や戦争遺構こそを保存すべきだと思う。平和とは何か若い人々に考えてほしい。