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私の被爆ノート

けがにも気付かず

2016年10月27日 掲載
内野 ナカ(91) 内野ナカさん(91)=長崎市= 当時19歳 三菱兵器製作所大橋工場勤務 爆心地から1.1キロの長崎市大橋町で被爆

戦時中で今日の命も分からない日々。長崎市西上町(現筑後町)の自宅に母と八つ下の妹、九つ下の弟と住んでおり、朝から「さようなら」と言って出勤していた。職場からの避難先である赤迫の防空壕(ごう)への道中は田んぼが多かった。今も田んぼのそばを通り稲の匂いをかぐと当時を思いだし、悲しい気持ちになる。

9日は朝から空襲警報が解除されたので、いつものように出勤。原爆投下時は事務所の中にいた。一瞬だったが、まるで太陽が破裂したような強烈な光に包まれ、気が付くと事務所の外に吹き飛ばされていた。間もなく空が暗くなった。

皆が何が起きたのか分からず右往左往する中、誰だか分からぬ人々が私の名前を呼び「体を見てほしい」と言う。見ると背中の皮がむけたり、耳がちぎれてぶら下がったりしていた。理由は説明できないが、「怖い」「かわいそう」といった感情は湧いてこなかった。

その場を離れようと周囲の人々が向かう方面へ一緒に歩き、浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)近くの畑で休んでいた。「自分のこの状況を家族にどうやって伝えればいいのだろうか」と途方に暮れた。近くにいた事務所の同僚男性が「あなたは足にけがをしている。市外へ行く救援列車が来るらしいので乗りなさい」と教えてくれた。そのとき初めて足にガラスが刺さっていることに気付いた。それまでは痛みも感じていなかった。

男性の肩を借りながら、西町踏切(現三芳町)まで移動し、夕方ごろ救援列車に乗り込んだ。車内の通路に寝転がって苦しむ人々の声が聞こえていたと思うが、その声もまともに耳に入らないような精神状態だった。

大村の駅で降りた後、トラックの荷台で海軍病院に運ばれ、ガラスが刺さった背中や左足の手当を受けた。足は包帯でぐるぐる巻きにされた。そのまま入院し、空襲警報が鳴るたびにお尻を付き、けがをしていない右足で地面を蹴りながら逃げざるをえなかった。

15日は玉音放送を聴くため病院の講堂に向かったが、足のけがのせいで間に合わず、聞き逃した。周囲から「戦争は終わった」「空襲はもうない」と教えてもらった。日本の勝ち負けも分からず内容が理解できなかったが、雰囲気で敗戦を悟った。

<私の願い>

原爆の記憶は一生忘れられない。ただ「原爆を投下したアメリカが憎い」という感情ではない。当時、日本も戦争をしていたのだから。勝っても負けても何も利益を生まない、それが戦争。二度とあってはならないと願っている。

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