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私の被爆ノート

燃え落ちる様眺め

2016年9月29日 掲載
木村 正里(86) 木村正里さん(86)=長崎市= 当時15歳 県立瓊浦中3年 爆心地から1.8キロの長崎市東北郷(当時)で被爆

畑から収穫してきた野菜を洗い終わり、台所そばであおむけになって汗が引くのを待っていた。ラジオは敵機の位置を伝えていた。「今、天草付近か。こっちに来るんだろうか」。ぼんやりと考えていると、周りが突然ピカッと光った。慌ててうつぶせになり目と耳を指でふさいだ。雷のような音が鳴り猛烈な爆風が襲ってきたが、窓ガラスの両面に新聞紙を貼っていたので破片は飛び散らず、無傷だった。学徒動員先の三菱長崎製鋼所の上司に教わり実践していたことが役に立った。

恐怖のあまり、はだしのまま飛び出して近所を見渡した。辺り一面、曇ったようにどんよりして、麦わら屋根があちこちで燃えていた。爆心地に近い大橋方面から血だらけの人が何人もよろけながら歩いてきた。道端にうずくまっている人や倒れている人もいた。何が起きたんだ、と気が動転した。

近所の家にいた母を迎えに行くと、左腕を押さえながら出てきた。爆風で吹き飛ばされ打撲したという。歩くことはできたので、一緒に近くの防空壕(ごう)へ向かった。

そこには、ガラスの破片が頭や顔など体のあちこちに刺さって流血したり、やけどを負ったりした人が何人もいた。私は近所の子どものやけどの手当てをしたり、包帯を巻いたりした。

どのくらいたったか、壕を出て自宅に向かった。隣のおじさんと幼い女の子が、崩れた家の下敷きになっていたので助けようと角材などを取り払っていた時、火が出始めた。

何とかおじさんたちを助け出したが、火は勢いを増していた。20メートルほど離れた小川から母と近所の人たちでバケツリレーをして消火を試みたが、燃え盛る一方。瞬く間に自宅も火にのみ込まれ、燃え落ちるのをただ眺めることしかできなかった。原爆が憎かった。

終戦後、親戚の家を転々とした。1948年3月、瓊浦中を卒業。経済的な理由で進学をあきらめ母のつてで五島の水産会社に就職したが、学びたいとの渇望はあった。仕事の合間に勉強し、給料をためて長崎外国語短大に進学。原爆投下から10年がたとうとするころ、中学校の英語教師として採用された。多くの子どもの笑顔と接するうち、争い事をしない子どもを育てたいとの思いを強くし、勤務先の学校で被爆体験を語ってきた。

<私の願い>

平和が一番。いかにして争いをなくすか、一人一人が考えてほしい。高齢化が進み、被爆者運動は弱まっている。高校生らが街頭で核兵器廃絶の署名を集めているように、戦争の悲惨さを理解して行動に移してくれればと思う。

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