延期されていた英語の期末試験を終え、解放された気分で友人2人とともに家路を急いだ。帰宅してすぐ、床の間にあったラジオをつけると不穏な情報を耳にした。
「西部軍情報、敵機小型2機、島原半島を西進しつつあり…」
ラジオを離れた瞬間、目を射るような閃光(せんこう)とごう音に襲われ、とっさに両手で頭を覆いうつぶせになった。木造の家は吹っ飛び、土煙が立ち込め息ができなかった。何が起きたのか分からずじっとしていると、あちこちから悲鳴が聞こえてきた。
無我夢中でがれきからはい出し、はだしのまま町内にある防空壕(ごう)に向かった。壕に着くと、急に具合が悪くなり、右手と後頭部がずきんずきんと痛んだ。親指の付け根部分がえぐれ、頭から流れ出た血で胸の名札が真っ赤に染まっていた。壕の中に入ってみたが、鼻を突く臭いですぐ外に出た。そこで銭座国民学校にいたという母と2歳の弟に再会した。
入り口付近にあった防火用水は、けが人の血を洗ったらしく、れんが色に染まっていた。「山手へ逃げろ」と叫ぶ声を聞き、3人で金比羅山の方に避難した。頂上付近から見下ろすと、町が炎と黒煙に包まれていた。途方に暮れながら西山越えで、父の職場の仮事務所があった寺町の皓台寺を目指した。夕方ごろたどり着くと、父と、6歳上の姉もいた。皮膚が真っ黒に焦げてただれた重傷患者が次々と担ぎ込まれ、戸板に残った血潮が痛々しかった。
一睡もできないまま朝を迎え、3歳下の妹と、7歳離れた弟が疎開していた時津町の親戚宅に向かった。長崎駅や浦上周辺、大橋町を歩くと、黒焦げでぱんぱんに腫れた馬や牛、男女の区別もつかない人間の死体が転がり、異臭を放っていた。三菱製鋼長崎製鋼所の鉄骨はあめ細工のように曲がっていた。
終戦後は佐賀県の親戚宅にいったん身を寄せたが、9月中旬から瓊浦中の授業が再開されると聞き、長崎に戻った。瓊浦中は全壊しており、県立長崎中や、焼け残った山里国民学校の校舎で授業は行われた。1947年春に父の転勤に伴い、県立大村中に転校した。
原爆で瓊浦中の友人はほとんど即死。当日一緒に帰っていた友人2人も亡くなった。右手の傷は今もイモリのような姿で残っている。傷を見るたびに当時の惨状を思い出す。
<私の願い>
世界には相当数の核兵器がまだ存在している。すぐには無理かもしれないが、最終的には核なき世界を実現してほしい。これまでは私たち被爆者が体験を通して反核平和を叫んできたが、高齢になったので、若い人に思いを引き継ぐしかない。