長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

水を求め歩く人々

2016年9月1日 掲載
大場 清利(82) 大場清利さん(82)=長崎市= 当時11歳 伊良林国民学校6年生 爆心地から3キロの新大工町で被爆

当時は父がビルマに出征し、新大工町の自宅兼金物店に母と弟と3人暮らし。戦争が長引くにつれ、町の多くの人が疎開。店の品数も次第に減り、ついになくなった。学校に持っていく弁当はイモや乾パン。物資や食料が不足する中、楽しみといえば、中島川で泳いでウナギを捕まえることや、近くの山でわなを仕掛けてメジロなどの鳥を捕ることだった。

8月9日は夏休み。午前中に空襲警報があったが、解除されて店にいた。隣組の班長をしていたので母と2人で配給用のカボチャをはかりに掛けていた時だった。ピカッとすさまじい光が差した。焼夷(しょうい)弾が落ちたと思い、とっさに目と耳をふさぎ地面に伏せた。

しばらくして目を開けると、最初はもやがかかったようにちりが舞い何も見えなかった。次第に視界が開けて起き上がると、家の窓ガラスは全て割れ、障子や戸、屋根なども爆風で吹き飛ばされていた。幸い、私と母、家の別の場所にいた弟にけがはなかった。

その後、家族3人で家の近くの防空壕(ごう)に1時間ぐらい避難した。中にいた人が「これは広島に落ちた新型爆弾と同じ爆弾だろう」と話していた。

防空壕から出てしばらくすると、浦上方面で被爆したと思われる人たちがぞろぞろと避難してきて、今の新大工町商店街の通りを歩いていった。男も女も裸で、やけどで顔が倍の大きさに腫れている人もいた。「水をください」と繰り返し言いながら歩いていた光景が今も忘れられない。地獄のようだった。

10日も11日もやけどを負った被爆者が逃げてきた。家の周辺には途中で息絶えた人たちが何人も横たわっていた。普段はごみを回収する人が、魚市場の競りで魚を扱うかのように、熊手で遺体を引き寄せてリヤカーに山積みにしていったが、多すぎて地面に落ちることもあった。遺体は伊良林国民学校のグラウンドで火葬。ひどい臭いが漂い、地面は脂でべとべとしていた。

終戦後、食べ物が何もなかった。学校がない週末は1人で大人用の自転車に乗り、食料を買いに出掛けた。土曜に家を出て、6時間かけて親戚の島原の農家を訪ねて米を買い、日曜に家に戻った。長崎市内の知人宅にもイモやカキなどを買いに行った。毎日、生きることで精いっぱいだった。こんな生活が半年ほど続いた。

<私の願い>

戦争の残酷さは、体験しないと分からない。原爆だけでなく、これまでの戦争で亡くなった人はたくさんいる。世界情勢は不安定だが、戦争は絶対に反対。最近悲惨な事件が多いが、まずは人を大事にすることを心掛けてほしい。

ページ上部へ