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私の被爆ノート

赤い斑点 死の恐怖

2016年8月4日 掲載
高原シズ子(85) 高原シズ子さん(85) 爆心地から1.5キロの家野町で被爆 当時14歳 県立長崎高等女学校3年 =長崎市=

おしゃべりに夢中になった工場への道のり、お化けに扮(ふん)して下級生を脅かした夜。朝起きて夜寝るまで友達と一緒に過ごし、しつけに厳しい親の束縛もない。戦時中、県立長崎高等女学校に通うため高島の実家を離れて東山手の寮で暮らし、学徒動員で家野町の三菱長崎兵器製作所大橋工場に通っていた。食糧が少なくおなかをすかせていたが、毎日が楽しかった。しかし、あの日を境にすべてが一変した。

8月9日。理由は覚えていないが仕事を休みたいと思っていたら、寮近くの軍の資材置き場にいた兵士が、親切にもトラックで送ってくれると言うので、結局工場に出向いた。友達と2人一組で、炉から上がった鉄製の部品の硬さを機械で計る仕事をしていた。

「ボウッ」。大きな音がしたかと思うと、爆風が工場内に押し寄せた。「ガスタンク爆発」。ほかの工員が叫んだ瞬間、その場にたたきつけられた。暗闇の中、天井から板や砂ぼこりが落ちるのを感じながら伏せていると、風が吹いて明るくなった。立ち上がって友達を見ると、お互いに顔がすすけて髪が逆立っていた。思わず笑い合ったが、屋根が吹き飛んでいるのに気付いた。頭を切って出血していた。急に怖くなり、友達と一緒にその場を逃げ出した。

長崎純心高等女学校裏の浦上川には多くの人が集まっていた。朝鮮人だろうか、胸に大きな水膨れがいくつもできた若い男性が「アイゴー」と言いながら泣いていた。早く寮に戻りたくなった。本原の方に向かう人の流れに加わり、飛んでいた米軍機に見つからないよう木の下を隠れながら友達と家路を急いだ。

山里国民学校の近くを通り掛かったとき、寮に住む同級生を見つけ合流した。同級生は外傷がないのに何度も吐いていたので、手を引いてひたすら寮まで歩いた。

10日、両親が寮に迎えに来て高島へ帰った。だが、しばらくすると胸がむかむかとし、体に小さな赤い斑点がいくつもできた。寮まで一緒に歩いた同級生が佐賀に帰郷し、亡くなったと友達から聞いた。「私も死ぬのかな」。青空を見上げて何度も思った。

体調は回復。9月に学校も再開した。学校では髪が抜けた同級生を見かけたり、誰かが亡くなったと聞いたりした。今となっては自分が助かったのは奇跡だと思う。

<私の願い>

原爆をはじめとする核兵器はいつまでも後遺症を残す。私も苦しめられた。戦争は自由を奪い、人を傷つけるだけ。避けなければいけない。若い人には、戦争につながる小さな争いから食い止めようとする意識を持ってほしい。

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