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私の被爆ノート

骨つぼ手に泣かれる

2016年6月30日 掲載
大賀 友子(87) 大賀友子さん(87) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆 =五島市江川町=

「あんたたちが生きとるとに、なんでうちの子は死んだとか」。原爆投下から約1週間後、亡くなった友人の自宅を仲間と訪ねると、骨つぼを手で揺さぶりながら泣きじゃくる母親に言われた言葉が今も忘れられない。親孝行のいい友人だった。あの日を経験した人にしか分からない苦しみ、悲しさが消えることはない。当時、私は16歳。瓊浦高等女学校在学中に学徒動員され、三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた。体調不良で休んで3日ぶりに出勤し、工場長に診断書を届けに向かう途中だった。

突然ピカッと光り、工場の屋根などがものすごい勢いで落ちてきた。とっさに身をかがめたが、ガラスなどが全身に突き刺さり、頭の出血がひどかった。辺りは夜のように暗くなっていた。 逃げようとすると、下から手が出てきた。同じ女学生が重機に覆われて身動きが取れずにいた。「助けて」「ごめんね、こんなに重いの持てんよ」。とにかく自分が助かりたくて、その場を離れた。その女学生の生死は今も分からない。

服は破れはだしのまま、泣きながら近くの山に登った。途中、後ろにいた男性に「それくらいで泣くな」と叱られた。男性は胸から血が噴き出た別の男性を抱え、それを見ると涙は止まった。

山頂で一夜を過ごし、翌朝、戸町の実家へ向かった。しばらく歩いていると、ぼろぼろの私を見た男子学生に石を投げられた。腹が立って「私はこじきじゃないぞ。爆弾におうて来たっぞ」と怒った。夕方、家にたどり着いた。私が死んで幽霊になったと思ったのか、母親には「足ば見せてみんね」と言われた。

原爆では20歳だった兄も亡くなった。召集令状が3回届いたが、勤務していた幸町の工場から熟練工がいなくなるとの理由で延期されていた。兄は機敏だったので、母親は「兵隊になっていれば生きていたかもしれん」と嘆いた。

<私の願い>

戦争して誰が喜び得をするのか。世界中どこであろうと、絶対に駄目。日本人でも外国人でも親心は一緒。「かわいいかわいい」と育てた子どもたちが、なぜ殺し合い、自分ではなく人のために死んでいかなければならないのか。子や孫たちにそんな薄情なことを経験させるわけにはいかない。

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