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私の被爆ノート

家族の人生が一変

2016年6月2日 掲載
武富 啓三(70) 武富啓三さん(70) 爆心地から2・8キロの長崎市片淵町2丁目で被爆 =壱岐市郷ノ浦町牛方触=

8月9日の原爆投下時、私はまだ生後2カ月で家の中で寝ていたと、7年前に亡くなった母からよく聞かされた。

歯科の開業医だった父は診療中。母は台所で昼食を準備しており、兄2人と姉は庭で遊んでいた。ピカッと光った次の瞬間、爆風で家の建具が全部ぐらぐらと揺れたかと思うと吹き飛び、兄たちは「熱いー」と叫びながら家の中に走り込んできたという。

ただ事ではないと感じた母はとっさに、寝ていた私の胸ぐらをつかむように抱え、家の裏の防空壕(ごう)のような所に投げ込んだ。私はころころと転がっていったという。家は木造だったが壊れずに残った。

母によると、家の周囲は焼け野原。黒焦げになった人がうめき声を上げ、「水をくれ」と言って死んでいった人が無数。悲惨を極めた状況をよく話していた。

原爆投下直後から、歯科医を含め医師が総動員で負傷者の手当てをすることになった。父も焼け野原で治療に奔走。そのせいか、父は翌年、39歳で突然亡くなった。救護活動中に被爆したからだと、家族は今も思っている。

大黒柱を亡くした私の家族は約1年間、親戚を頼り分散して生活した。しかし、母が、家族は全員で暮らした方がいいと考え、壱岐の父の実家に移った。

母は、農作業をしたことはなかったが、食べるためにと近所の農家に教えを請い、米や芋を一生懸命作ってくれた。歯科医の妻ならしなくてもいい苦労をして、私たち子どもを育ててくれたことに感謝している。

私は物心がついたころ、家族の会話の中で被爆したことを初めて知った。当時は何とも思わなかったが、次第に体が不調になるのではないかと心配したこともあった。原爆のせいで、家族の生活や人生が一変したことを、非常に悔しく思っている。

<私の願い>

71年前、あってはならないことが起きてしまった。先日、オバマ米大統領が広島を訪問したが、長崎で黒焦げになった人にも手を合わせてくれたら、私の心はさらに和らいだと思う。米国は強大な国だから、人類の平和のため核廃絶に向け先頭に立ってほしい。核なき世界の実現を強く希望する。

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