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私の被爆ノート

姉と古里、健康も失う

2016年5月19日 掲載
大原 英子(88) 大原英子さん(88) 爆心地から4キロの長崎市西立神町で被爆 =南島原市口之津町甲=

勤務先の立神国民学校の教室で同僚の女性教員数人とおしゃべりしていた時だった。突然、目をえぐるような閃光(せんこう)と猛烈な爆風に襲われた。視界を奪われ何も見えなくなり、怖くて心臓が破裂しそうだった。

視力が次第に戻ると、足の踏み場もないほどガラス片やがれきが散乱しているのが分かった。必死でその場から逃げ、トイレの手洗い場にある頑丈そうなコンクリート製洗面台の下に隠れた。「新しい爆弾だろうか」。17歳だった私は震えながら、麹屋町に暮らす両親や姉、3人の妹の身を案じた。

職員室に戻りほかの教職員と合流し、そばの防空壕(ごう)へ避難。夜になると、町を焼く炎が空を照らしていた。みんな放心状態で無言。狭い宿直室に戻り、身を寄せ合い深く眠った。

翌10日、稲佐橋を経由して自宅まで歩いた。焼け野原となった地面は運動靴越しにも熱く、何度も途中の水たまりで足を冷やした。自宅で家族と再会し喜んだが、姉だけ安否が分からなかった。

姉の勤める製鋼所が事務所として間借りしていた旧制瓊浦中で12日、瀕死(ひんし)状態の姉を母が見つけた。姉同様にがれきの下から助け出された人たちと床に寝かされていたが、衰弱しきっていたという。姉に医師の治療を受けさせるため家族全員で磨屋国民学校に避難したが、19日に息を引き取った。

近所の広場で火葬。お骨を持ち、満員の列車で父の実家がある旧南高口之津町へ行き、葬式を行った。母と妹たちはそのまま疎開。私と父は仕事があるためいったん長崎に戻ったが、数年後、口之津町へ移住した。

私は36歳と60歳で肝炎を、70歳で緑内障を患った。被爆の影響ではないかと思う。「原爆さえなければ、姉を亡くすことも、古里の長崎を離れることもなかったのに」。この悔しさ、歯がゆさは消えることはない。

<私の願い>

長崎市立高等女学校時代の同級生約200人のうち、50人以上が原爆で爆死した。戦争も原爆も嫌だ。心の面でも物の面でも大変苦しい思いを強いられる。こんなみじめな経験は私たちで最後にしてほしい。子や孫たちの世代には味わってほしくない。平和が一番。世界中が仲良くしなければならない。

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