長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

黒い煙と炎立ち込める

2016年5月12日 掲載
中嶋 幸子(82) 中嶋幸子さん(82) 爆心地から4・6キロの長崎市大浦出雲町で被爆 =長崎市出雲3丁目=

「米軍が上陸する。女子どもは早く逃げないと、何をされるか分からない」。デマが流れたのは9日の夕方だった。翌朝早く、母、姉とその幼い娘2人、弟の6人で長崎市大浦川上町(当時)の自宅を離れ、山道をひたすら歩いた。「手を離すな」「歩け、歩け」。母がみんなを叱咤する姿を覚えている。

自宅近くの高台にある田んぼで母と一緒に被爆した。12歳だった。爆風がおさまった後、浦上方面を見渡すと、黒い煙と炎が立ち込め、今にも押し寄せてきそうだった。

自宅へ戻ると家族はみな無事だった。父は親類らの安否を確かめに市街地へ。夕方に戻ってくると、「水をくれ、水をくれと言われたがどうしようもなかった」と、疲れ切った表情で語った。

デマが流れてきたのはちょうどそのころだ。誰かが「長崎におればどんな目に遭うか分からん」と叫んでいた。

翌朝。父や兄を残し、親類を頼りに島原を目指した。どこをどう歩いたのか覚えていないが、夜に大勢の人が集まった場所にたどりついた。後で諫早駅だと分かった。石段の片隅で座り込んでいると、母がにぎり飯を差し出した。朝から何も食べていなかったので、本当においしかった。

駅は人でごった返していた。島原方面への列車に乗れそうにないと思ったのか、母は島原行きをあきらめた。「どこまで逃げても同じこと。どうせ死ぬのなら家に戻って、みんなで死のう」

その夜のうちに、長崎方面行きの列車に乗り、道ノ尾駅から歩いて自宅へ向かった-と記憶している。途中で姉の6歳の長女とはぐれたが、母が長女の名前を何度も叫ぶと、遠くから長女の泣き声が聞こえた。みんなほっとした。

爆心地近くでは、あちこちで死体が焼かれ、夜なのに明るかった。自宅についたときは、もう夜が明けようとしていた。くたくたでもう何も考えられなかった。

<私の願い>

被爆体験は思い出すだけでもつらい。今でも病気になれば、被爆した影響ではないかと不安になる。だが、戦争や被爆という悲惨な過去があったことを伝えるために、子や孫たちには体験をよく語っている。家族にはもちろん、世界中のどんな人にも、あんな苦しい経験をさせたくない。

ページ上部へ