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私の被爆ノート

我慢できず川の水飲む

2016年4月28日 掲載
松竹 秀雄(88) 松竹秀雄さん(88) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆 =長崎市平戸小屋町=

当時17歳。三菱兵器製作所大橋工場に勤務していた。とても暑い日だったと記憶している。上半身は裸で、魚雷の安定器にやすりを掛けていた。

突然、まばゆい閃光(せんこう)が2回。直後に強烈な爆風が工場に吹き付けた。屋根のスレートは一斉に落下。無我夢中で両手で目と耳をふさぎ、地面に伏せた。

しばらくして爆風は収まった。肩や背中から出血していたが大したことはなく、「助かった」と実感した。作業台の中から母の手作り弁当を取り出し、工場指定の避難所に向かった。

到着後、喉が渇いて仕方がなく、飲み水を求め純心女学校(当時)近くの友人の実家に向かったが、一帯の民家はほとんど跡形も残っていなかった。とうとう我慢できずに浦上川の水を飲んだ。5~6メートル先に死体が浮いているのに気付いたが、「しまった」という感情は希薄だった。

避難所に戻ってしばらくすると、救援列車が近づいてきた。負傷者を抱えて運び込み自分も乗車した。暗くなったので大草駅で降り、今の公民館に当たる青年倶楽部(くらぶ)に泊めてもらった。やっと母の弁当を開くことができたが、腐って食べられないものもあった。

翌日、ようやく平戸小屋町の自宅へ戻ることに。列車で長崎市内まで戻り、歩いて家の近くまで来ると、隣家の方が「秀雄さんが帰ってきたよ」と叫び、近くの防空壕(ごう)に走っていった。防空壕から出てきた母と再会した私は、抱き合いおえつした。父と弟は原爆で亡くなっていた。

なぜすぐに家に戻らなかったのか-。自分でも長年分からなかったが、最近になってはっとしたことがある。あの日、工場で「本日は解散」といった命令はなかった。17歳の私は、解散命令がないのに身勝手な行動を取るべきではないと考えていたように思う。

<私の願い>

子どもたちには被爆体験を話してこなかった。被爆2世という理由で、つらい思いをさせたくなかったからだ。現政権はいつか戦争をするのではと危惧している。日本は二度と戦争をしてはならず、平和運動を続けていく必要がある。年齢的に参加は難しいが、若者たちの運動を応援していきたい。

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