長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

黒い雨 すだれのよう

2016年4月21日 掲載
小河原ヤエ子(90) 小河原ヤエ子さん(90) 長崎市水の浦町で被爆 =長崎市彦見町=

当時、19歳の私は三菱長崎造船所の会計課で働いていた。被爆者健康手帳には爆心地から3・2キロの飽の浦町1丁目で被爆したとあるが、近くの水の浦町のビルに会計課はあったと記憶している。

9日は敵機の音がしたが、1機だけだと油断した。ピカッと光った窓の方を見ると、外は燃えたように赤、桃、黄色が混ざった何とも言えぬ暗い色になっていた。鉄筋の建物で損傷は少なく、けがはなかった。怖かったが、たった一発だったのを不思議に思いながら地下の防空壕(ごう)へ逃げた。

夕方、職場から帰宅指示が出たので外へ。寮のあった上筑後町(現玉園町)に戻る途中、おなかの大きく膨れた馬や折り重なって亡くなった人々を目にした。長崎駅から稲佐方面を見ると、黒い雨がすだれのように降っていた。

翌日、大波止から職場そばの向島まで向かう社船の中で、新聞を読んでいた人から「昨日の爆弾は新型」と聞いた。職場では浦上に自宅があった同僚が、家族を失ったのに「お国のために」と黙々と働いていた。

数日後、南高山田村(現雲仙市吾妻町)の実家に向かう途中、陸軍の車が諫早駅まで乗せてくれた。敵機に見つからないよう腹ばいで川の水に漬かり島原鉄道の汽車を待った。夜中に山田村駅に着いたので、近くのかまぼこ屋さんが泊めてくれた。

翌朝、私が実家へ姿を見せると、5歳のおいが「今日から飯がうもうなっどー」と大喜びした。長崎が壊滅状態だと聞いた家族は、私は死んだものと思って食事も喉を通らず、私の着物を眺めていたらしい。

翌日、親戚の家族が心配で父らと長崎へ向かったが、自宅のあった場所には粒々の灰だけしかなかった。周りでは水分が抜けて子どもぐらいの大きさになった大人の遺体が焼かれていたが、感覚がまひして何とも思わなかった。

<私の願い>

妻や幼子たちを残してビルマで戦死した兄をはじめ、親戚や周りの若者はほとんど帰ってこず、いまだに悲しみは消えない。人生がめちゃくちゃになる戦争は二度とないように、若い人にお願いしたい。あの惨めさ、哀れさ、怖さを今の子どもたちには経験してほしくない、と強く思っている。

ページ上部へ