長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

痛々しい母の姿に驚き

2016年4月7日 掲載
實藤 義人(81) 實藤義人さん(81) 爆心地から2・9キロの長崎市出来大工町で被爆 =長崎市片淵5丁目=

願いが一つかなうなら、思い切り食べたいものがあった。いつもきょうだいで分け合っていたバナナ。食料がなかなか手に入らなかった時代、甘いものといえばバナナだった。食べ盛りの年頃におなかいっぱい食べられないつらさはあったが、日本が勝つためなら我慢もできた。

当時、勝山国民学校5年生で10歳。自宅近くの中島川にウナギを捕まえる仕掛けをし、毎日、釣果を確認していた。8月9日も川に行っていた。

ピカッ。辺りが真っ白に見えるほどの閃光(せんこう)が走った次の瞬間、爆風が強烈に吹き付けた。とっさに石垣の近くにあった角材の陰に隠れた。何が起こったのか理解できない恐怖が、母のいる自宅に急がせた。遊びに行っていた弟も、走って帰ってきた。

母の顔を見て安心したのもつかの間、痛々しい母の姿に驚いた。無数のガラス片が背中に刺さり、血だらけだった。間もなく、「県庁が燃えている」と近所で騒ぎになり、職場から帰ってきた父や姉、赤チンで簡単な手当てをしただけの母ら家族6人で、県庁と逆の山の方向に逃げた。途中、何も考えられず、父の「急げ」の声だけが響いた。その晩は山で蚊帳を張って過ごした。

翌日、自宅に戻ると、大八車に乗せられた死体が次々に運ばれて来て、中島川沿いで焼かれていた。これが1週間ほど続いた。あの日の閃光が何か大変なことを起こしたなと察した。

15日。どんなに空襲警報の発令回数が増えても、建物が火柱を上げても、日本は勝つと信じていたのに、現実を突きつけられた。ラジオから途切れ途切れで伝わってくる玉音放送が敗戦を告げていた。悔しくて涙が止まらなかった。

戦後しばらくして、簡単に手に入るようになったバナナを1人で食べた時、これが平和の味なんだとかみしめた。

<私の願い>

子どものころ、頻繁に発令される警報におびえ、学校でもほとんど授業はできなかった。こんな生活は自分たちだけで十分。核兵器がない世界を目指すのは当然のことで若い人たちにも核兵器の怖さを理解してほしい。家族や隣近所を大事にする社会になれば、平和な社会につながると思う。

ページ上部へ