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私の被爆ノート

責任感 強かった長姉

2016年3月24日 掲載
片岡 幸子(84) 片岡幸子さん(84) 爆心地から2キロの長崎市本原町3丁目(当時)で被爆 =長崎市三原1丁目=

当時、長崎市内の女学校の2年生で13歳だった。兄1人、姉2人の4人きょうだいの末っ子。家族6人で7月、川口町から疎開で本原町3丁目へ引っ越してきたばかりだった。

8月9日、昼から学校に行くことになっており、午前中は家にいた。7歳ほど年上で山里国民学校の教師だった長姉は、夏休みも学校に行くはずだったが、その日はなぜか母が休ませていた。母と私、長姉の3人で家にいた時。突然、目の前がピカっと光り、ダダダーッと地震のような揺れがきて、爆風で一瞬にして家がぺちゃんこになった。私と長姉は土間にいて、どうにか自力でがれきの中から抜け出したが、母屋にいた母は大きな大黒柱の下敷きになり、足を挟まれてしまっていた。2人で助けようとしたが救出できず、近くの山の防空壕(ごう)にいる人に「助けてください」と必死にお願いしたが、みんな自分のことで精いっぱい。なんとか母を助け、山奥に急いで逃げ、夜まで隠れていた。

夕方、父や兄、すぐ上の姉と合流し、その後は小屋に畳2枚を敷いて生活した。当時はラジオも何もなかったので15日の終戦は知らず、2~3日後に近所の人から戦争が終わったと聞いた。もう敵の飛行機が来ないのだと思い、安心したことを覚えている。

長姉は、責任感が強い優しい人で、末っ子の私をすごくかわいがってくれた。自分の生徒が心配だったのか、10日から毎日のように山里国民学校に通っていた。そのせいか、11月ごろからあまり食事ができなくなり、体調不良から翌年3月に教師を辞め、10月に亡くなった。当時は医者から病名が分からないと言われていたが、学校に通ってたくさん被爆したせいだと思う。青春時代に若くして亡くなった姉が本当にかわいそうだ。今でも、やせ細った顔しか思い出すことができない。

<私の願い>

二度と若い人には戦争を体験してほしくない。自分のことは自分で守るように、日本も自国で守るべきだと思う。もし、他国から何か言われて腹が立っても、一歩下がることが大切。誰かが一歩下がらないと、うまくいかない。これからも日本は戦争をしないような外交をしてほしい。

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