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私の被爆ノート

海に飛び込み 逃れる

2016年3月10日 掲載
首藤 栄(84) 首藤栄さん(84) 爆心地から3・2キロの長崎市出島町で被爆 =長崎市東山手町=

当時14歳で、大浦国民学校高等科2年生。敵機を警戒しながらの学校生活で、校舎裏の崖に防空壕(ごう)を掘ったり、運動場にサツマイモを植えたりしていた。

テレビもない時代。ラジオや新聞は、社会の様子や世界の動きを知るために欠かせず、学徒動員でクラス全員が新聞配達をしていた。9日はとても暑く、セミがよく鳴いていた。いつものように配給所へ行くと、鉄道のどこかが爆撃され新聞を運ぶ列車が遅れると知らせがあった。とても暑い日だったので、みんなで近くの海岸で涼みながら待つことに。その後、石炭や砂利を積んで停泊していた団平船の上を走り回って遊んでいると突然、1人の水兵が叫んだ。「爆弾が落ちるぞ、海に飛び込め」

皆とっさに飛び込み、しばらく水中にいたが息が続かない。海面から顔を出した途端、目もくらむ強い光に驚き、また潜った。もう一度顔を出すと、暗くて何も見えない。爆風で飛ばされた粉じんが海面に広がり、べっとりと顔にへばりついた。次第に視界がはっきりすると、巨大なきのこ雲がむくむくと膨れ上がっている。あの中から何か出てくるのではないかと恐ろしくなり、みんな海から陸に夢中で上がって、走った。

がれきの中を素足で歩いた。擦れ違う人は頭や顔が血だらけ。自宅は雨戸やガラスが畳の上に散乱しており、誰もいなかった。避難所の防空壕では、けが人のうめき声や家族の安否を気遣う人の声が入り乱れていた。ようやく母を見つけてほっとした。姉は頭にガラス片が刺さって血を流していた。長崎駅近くで働いていた父も生きていた。

翌日、不明者を捜し歩いた父から、黒焦げで男女の区別さえ判別できない多くの死体、ボウフラがわいた防火水槽に折り重なった死体の話などを聞いた。壕の近くでは、火葬の光景が毎日のように続いた。

<私の願い>

30代のころから、日記代わりに切り絵を日々制作している。絵を自由に表現できるのも平和だから。戦争や核兵器を身をもって体験した私たちは、そのむごさ、愚かさ、平和であることの素晴らしさ、尊さを、叫び続けていかなければならない。戦争は、二度と繰り返されてはいけない。

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