当時、伊良林国民学校5年生で10歳だった。8月9日は午前中に出ていた空襲警報が解除され、鳴滝町の自宅で弟の友吉、秀吉と昼ご飯を食べようとしていた。
「飛行機が飛んできたぞ」。近所の人の声が耳に入り、気になって自宅の外に出た瞬間だった。ドーンと大きな爆発音。反射的に地面に伏せ、顔を上げると金比羅山の向こうに立ち上るきのこ雲を見つけた。巨大な、どす黒い雲。「とんでもないことが起きているのでは」と不安な気持ちになった。
辺りを見渡すと、家々は倒壊したり傾いたりして景色が一変していた。自宅も爆風で瓦の一部が飛び、壁は穴が開いていた。
農作業で出掛けていた母サクが昼すぎに帰宅。母に会えた安心感が心の中に広がった。その後、父梅吉が夕方戻り、近くの防空壕(ごう)に避難した。壕には爆心地周辺から逃げてきた負傷者が日を重ねるごとに増えた。
「水ば飲ませてくれんね」。うめくように繰り返す声が壕内に響いた。全身を包帯で巻かれたけが人もいた。板や持ってきた畳を敷いて看病を続けていたが、多くの人が死んでいった。
亡くなった人は伊良林国民学校のグラウンドに運ばれ、家族が火葬していた。肉親を自ら焼く姿に涙が止まらなかった。感じた悲しみを表現する言葉などない。一瞬で命を奪う原爆の恐ろしさを実感した。
その後、壕で生活する中で8月15日を迎えた。近所の広場には近隣の住民が集まり、全員が頭を下げてラジオの玉音放送に耳を傾けた。
戦後の生活はとにかく貧しかった。兄弟のためにと元船町の倉庫にある輸入品の米やトウモロコシなどを夜、盗みに行っていたほどだ。罪悪感を抱えながらも、一番大切なのは生きることだということをかみしめ、必死に日々を暮らした。
<私の願い>
政府はなぜ原発事故があったのに、今も原発に頼ろうとしているのか。核エネルギーの本当の怖さを知らないからだ。被爆者の声に耳を傾け、いま一度原発の在り方を考えてほしい。国が軍事力強化にかじを切ろうとしていることも気にかかる。外交政策は対話が基本。武力で平和は実現できない。