長崎市鳴滝町(当時)の洋服店の三男として生まれた。伊良林国民学校の2年生。7歳だった。店を経営していた父は数年前から海軍に召集され、店は休業。裕福だった暮らしは一転、困窮していた。
よく晴れた、暑い夏の朝だった。風通しの良い玄関近くの部屋から、奥の台所で祖母がジャガイモを切っているのが見えた。祖母と母、きょうだい5人の7人暮らし。配給だけでは足りず、遠くにある親戚の畑を借り、カボチャなどを育てていた。
「あぁ、昼飯はまたイモの煮物か」と思ったその時だった。閃光(せんこう)が玄関口から差し込んだ。「照明弾。次は爆弾か」-。急いで庭の裏の竹やぶにかがんだ。直後、息苦しくなるほどの爆風が襲った。
10分ほど伏せていただろうか。家のガラス戸は粉々に砕けていたが、家族にけがはなかった。2歳上の次兄に連れられ、旧制県立長崎中の敷地内にあった防空壕(ごう)に急いだ。
この時、見上げた長崎の空を一生忘れない。不気味なきのこ雲が立ち上っていた。丸いかさは黒い煙がごうごうと内側に渦巻き、柱の部分は赤茶けた色をしていた。
壕内には近所の人が身を寄せ合い、「長崎は全滅ばい」「県庁も駅も燃えとるげな」とおびえた様子で話し合っていた。
壕から初めて出たのは夕方すぎ。夜になっても立山の縁が真っ赤に染まっていた。幼心にも山向こうの惨状は想像がついた。戦争が終わった15日まで、壕内で過ごした。
父が帰ってきたのは5、6年後。台湾で抑留されていたという。この間、母は嫁入りの着物まで農家に持ち込んで食べ物と交換。懸命に私たちを育ててくれた。生活が安定したのは中学卒業後、三菱技術学校に通い、三菱重工長崎造船所の設計職として給料をもらえるようになってからだった。
<私の願い>
大黒柱の父を戦争にとられ、家は洋服店だったのに着るものにさえ不自由していた。戦中・戦後は多くの子どもが私と同じように苦しんだ。指導者はなぜ勝つ見込みのない戦争に突き進み、早期に終息させなかったのか。いまだに怒りを覚える。子どもや孫たちには同じ目に遭ってほしくない。