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私の被爆ノート

海に浮いた男女の遺体

2016年2月18日 掲載
内堀美智惠(82) 内堀美智惠さん(82) 爆心地から4・1キロの長崎市中新町で被爆 =大村市松山町=

理由はよく分からなかったが、朝から母、姉、妹、弟の5人で中新町の防空壕(ごう)に向かった。しかし満杯だったので、「涼しいうちに」と町内の実家近くの坂の上にある墓地へ。父は「いつ死んでもいい」と実家に残った。当時11歳。

墓地ではござを敷き、きょうだいで無邪気に走り回って遊んでいた。上空に飛行機が見えたので、友軍機だと思って眺めていると、フワッとしたものが落ちてきた。「落下傘か」と思った瞬間、ピカッと光った。しばらく気を失っていたので何が起こったのか分からなかった。気付くと1メートル以上吹き飛ばされていた。

幸い全員けがはなく、実家は半壊していたが父も無事だった。私の髪の毛がズルッと抜け落ちたことを覚えている。

翌朝、母の親戚がいる磯道町まで避難することにした。ありったけの米でおじやを炊いて釜に入れ、姉が大きな風呂敷を背負って歩いた。道すがら戸町付近の海岸沿いでは、男女の死体と缶詰が海にぶくぶくと浮いていた。女性はあおむけ、男性はうつぶせになって死んでいた。恐ろしくて強烈だったので、その光景が目に焼きついている。

親戚の家では、山に水をくみに行ったり、畑の手伝いをしたりして野菜をもらい、おかゆを作って食べていた。ラジオや人づてに原爆や終戦のことを知った。約半年後に実家に戻った。兵隊だった2人の兄も無事に帰ってきたが、食料も何もない。知り合いのトラックに乗せてもらい、父の出身地の島原半島に買い出しに行き、洋服や着物類との物々交換で食料をもらっていた。

被爆者手帳の取得は「被爆者と知られたら嫁入りできなくなる」と母が猛反対したので申請できなかった。結婚後、横浜市に住んでいたころ、手帳を申請できることを知った。取得したのは39歳のころ。母が亡くなってから5年後のことだった。

<私の願い>

私は幸いなことに無事だったが、多くの人がひどいけがをしていまだに苦しんでいる。戦争は反対だし、息子や孫、ひ孫の時代に再び放射能で人が傷つくことがあってはならない。自衛隊そのものには反対ではない。他国を支援するのも仕方ない。それでも武器を持って海外に出ることはいけない。

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