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私の被爆ノート

火の粉落ちた市内 姉は

2016年2月11日 掲載
松尾 末子(83) 松尾末子さん(83) 爆心地から7キロの時津村西時津郷で被爆 =西彼時津町浜田郷=

時津村西時津郷の田んぼで、両親と一緒に農作業をしていた。突然、南側の山の上の空がピカッと光った。火の玉がさく裂したように、火の粉が下に流れていった。先頭にいた父が「空中爆弾ぞ。イチノ(母)、末子、早う伏せろ」と叫んだ。ドンという音とともに、水の中にしゃがんだ。稲がサワサワサワと音を立てた。

周囲で農作業をしていた人たちが「火の玉の落ちたけん、早う帰ろう」と口々に言い、逃げるように走って自宅に帰った。家では祖父が弟妹4人の子守をしているはずだった。南向きのガラス戸8枚は粉々に割れて北側へ吹き飛んでいた。父が「子どもたちは」と聞くと、祖父は「いっせき(みんな)おるごたる」と答えた。弟妹はガラス戸の南側にいたので、直撃を受けずに助かった。

二つ上の姉、清子は長崎市上野町の伯母の家に預けられていた。父と2人で、姉を捜しに市内へ入った。六地蔵を過ぎた辺りから黒焦げの人を見るようになり、赤迫の防空壕(ごう)の辺りからは、倒れている遺体をかき分けなければ進めなくなった。辺りは火の海。途中でたどりつくのをあきらめた。

清子は西山にいると連絡が入り、自宅へ連れて来られた。全身やけどを負っていて、母が服を着替えさせようとすると皮まで一緒にめくれた。「熱か、痛か、熱か」とうめく姉に対して、できるのはうちわであおぐことだけだった。いつの間にか姉は何も言わなくなり、気が付くと亡くなっていた。それが分かると母は泣きだした。

父に命じられ、浦郷の田崎病院で看護婦をしていた六つ上の姉、幸子を呼びに行った。病院にはやけどをした人が次から次へと運び込まれ、姉はその介抱に忙殺されていた。「やけどの人が黒山のごとおる。姉ちゃんは来られんと言った」と父に伝えると、父はしょげていた。

<私の願い>

今でも、原爆が落ちた瞬間にいた場所の辺りから山の方を見ると、当時のことを思い出して体が硬直する。姉のほかにも大勢の親戚が原爆で亡くなった。人の命を絶ち切る戦争は、絶対に避けなければならないこと。人間が安心し平和で幸福に生きられる世の中であってほしいと思う。

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