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私の被爆ノート

頭部ない子抱く母親

2016年2月4日 掲載
草合 護(86) 草合護さん(86) 爆心地から1・4キロの長崎市竹の久保町3丁目(当時)で被爆 =福岡市博多区=

壱岐の志原国民学校高等科を卒業後、長崎市にあった溶接工の養成所に入所。修了後は三菱長崎造船所立神工場で働いていた。16歳だった。

8月9日は徹夜明けの休みを利用して、以前住んでいた竹の久保町にある下宿を訪ねた。下宿のおばさんから、近くの防空壕(ごう)の中に食料品を置く棚を作ってほしいと頼まれ、壕に入ろうとしたとき、空が真っ白く光り、ドンという音とともに熱風で吹き飛ばされ、気を失った。

気が付くと辺りの家は爆風でつぶれ、火が迫っていた。炎の中をくぐるように逃げるうち、左腕や胸など体のあちこちが熱く、痛くなった。体を冷やそうと入った竹の久保川には、黒焦げの死体や焼けただれた人たちが浮いたり沈んだりしながら流されていた。

やけどを負った左腕は膨れ、手首にはめた腕時計の革バンドが食い込み、皮膚が垂れ下がったので、着ていた焼け残りのシャツを切り裂いて腕に巻いた。大人たちについて歩いたが、死体とがれきでなかなか進めなかった。身寄りも土地勘もなく、このまま死ぬのかと怖かった。

家の下敷きになって生きたまま焼け死んでいく人、水を求める人らのうめき声が聞こえたが、助ける力もなかった。ただれた体を引きずりながら歩く学徒、内臓がむき出しになった人もいた。頭のない子を胸に抱えた若い母親を見たときは、地獄だと思った。

夜、稲佐山のふもとで眠り込んで目を覚ますと救助の兵隊がおり、大村の海軍病院に行くよう言われた。病院でも重傷者が次々に運び込まれ、私は廊下に寝泊まりして治療を受けた。

終戦後、壱岐に帰ろうと大村から列車で博多に向かった。博多も一面焼け野原。食べる物もなく、ぼろぼろの作業着で放浪していると、年下の孤児たちから焼き芋を分けてもらった。涙が出るほどうれしかった。

<私の願い>

私たちのようなむごい経験を絶対にしてほしくないという思いで語り部になった。日本は憲法9条の下で平和をしっかり守ってほしい。現在も世界のあちこちで戦争が起きている。戦争のない、核兵器のない平和な地球こそが私たちの理想。将来を担う若い力でどうか実現してほしい。

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