松尾 和子
松尾 和子(83)
松尾和子さん(83) 川棚町で救護被爆 =東彼川棚町下組郷=

私の被爆ノート

負傷者多く人手足りず

2016年1月21日 掲載
松尾 和子
松尾 和子(83) 松尾和子さん(83) 川棚町で救護被爆 =東彼川棚町下組郷=

1945年7月31日に川棚空襲があり、原爆の記憶と混在している。川棚国民学校高等科2年の13歳。学徒動員で川棚海軍共済病院に通っていた。

8月9日は注射器やメスなどを消毒する湯を釜場で沸かしていた。スコップで石炭を運んでいると突然、ピカッと空に閃光(せんこう)が走った。見渡そうとした瞬間、ドカーンという音が聞こえたと記憶している。長崎方面にもくもくと雲が見え、すぐに真っ白に。石炭を燃やしていたおじさんに防空壕(ごう)に逃げるよう指示された。

夕方、国鉄川棚駅近くの家に帰宅。日が暮れるのと同時に、大村湾の対岸が真っ赤に染まっていく。父は鍼灸(しんきゅう)院を営み、店にはラジオも新聞もあって、ある程度のニュースは知っていた。「2、3日前に広島に落ちた爆弾に違いない」。父は海を眺め、そう断言した。

翌朝、いつも通り病院に行くと、大きな釜で使用済みの包帯やガーゼがたかれていた。それらには負傷者のうみや皮膚がくっついたまま。うじ虫も一緒にたぎり、「イワシが腐ったような」強烈な臭いが漂っていた。

洗濯作業と並行し、交代で川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所まで汚れた包帯などを集めに行く仕事も回ってきた。養成所には多くの負傷者が運び込まれており、救護は明らかに人手が足りていない。患者を看護師と運んだり、患者の体にわいたうじ虫を取り除いたりした。缶に捨てたうじ虫が、しばらくすると次々はい出してくる様子に気分が悪くなった。「(病院に)洗濯係を待たせているので」と看護師に伝え、走って戻った。

8月15日。学校で「戦争は終わった」と伝えられ、涙が流れた。その後、学校は再開したが、教科書もノートも鉛筆もなく、勉強どころではなかった。当時を思い出す気がして、今も鉛筆を握るのは好きではない。

<私の願い>

戦争は人間の仕業。二度としてはいけない。(最近の安保法関連の動きを受け)若い人たちに伝えたい。「戦争には絶対行かないで。『行けと言う人たちが行け』と言いなさい」と。一人前になったばかりの若者が赤紙一枚で召集され、その後どうなったか。私たちはそれを見てきているから。

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