近藤五十三
近藤五十三(73)
近藤五十三さん(73) 爆心地から3・0キロの長崎市今魚町(現魚の町)で被爆 =長崎市江里町=

私の被爆ノート

偏見に苦しんだ半生

2016年1月14日 掲載
近藤五十三
近藤五十三(73) 近藤五十三さん(73) 爆心地から3・0キロの長崎市今魚町(現魚の町)で被爆 =長崎市江里町=

被爆当時2歳11カ月。幼かったが、すさまじい光で目の前が真っ白になったあの瞬間は脳裏から離れない。

父は戦死し、母と幼稚園児の兄の3人暮らしだった。今魚町(当時)の自宅の玄関先で水遊びをしていて被爆。裸のまま母に背負われ、諏訪神社近くの防空壕(ごう)に逃げた。

兄は3日後、防空壕近くで亡くなっているのが見つかった。原爆の爆風を受けたのだろう。

大規模な火災で自宅は全焼。防空壕での生活が続いた。母は五島の実家に助けに来るよう手紙か何かでお願いした。迎えの船が来ていないか確かめるため、大波止の船着き場へ。途中、「助けて」「痛い」と叫び声が聞こえたことを覚えている。大波止に幾度も通ったが、祖父が漁船で迎えに来たのは2カ月後だった。

五島の小学校では、2年から4年まで「原爆の子」「汚れ」などと悪口を同級生に言われた。石を投げられたり殴られたりして頭から出血したことも。このころ、学校や道端で何度も突然気を失い、倒れた。

1学年40人ほどで、同学年で被爆していたのは自分だけ。誰もかばってくれなかった。「他の人と違うんだ」と自分に言い聞かせ、諦めていた。

母は伯母から「無一文のくせに、なぜ実家に帰ってきたのか」と心無い言葉を浴びせられていた。小学4年の時、母は自宅で無理心中を図ろうとして私の首にもひもを巻いたが、思いとどまらせた。母の首に残ったひもの痕を伯母たちに見せると、苦しい心境を分かってくれた。

中学卒業後、五島と県外を行き来し、仕事を転々とした。被爆者健康手帳は制度ができてすぐに取得したが、神戸の合板会社で働いていた時、被爆者であることを知られ、解雇された。

偏見や差別に苦しめられた半生。解雇の時も悔しさより諦めの気持ちが強かった。

<私の願い>

10年ほど前まで、個人的に依頼を受け、修学旅行生に自分の被爆体験を話していた。被爆者を理由に差別を受けたことや幾つも病気を抱えていることも伝えた。人生を狂わされた原爆や戦争が憎い。若い人には被爆者のこうした苦しみと思いに触れ、後世へ語り継いでいってほしい。

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