当時20歳。兵隊の夫と結婚しており、現在の西彼時津町で夫の祖母と2人で暮らしていた。
あの日は、早朝から町の海岸で塩作りの手伝いをしていた。突然、空襲警報が鳴り、しばらくして今度は警戒警報が鳴った。飛行機の音が聞こえ、長崎の方の空を見上げると、落下傘がゆっくりと落ちているのが見えた。その瞬間、ピカッと光り、ドーンと空中で爆発。すぐに顔をタオルで覆い、伏せた。熱風が押し寄せ、体の右半分が熱くなるのを感じた。
周りは、私と近所の子どもの2人だけだったので、その子を背負って急いで家に戻った。帰る途中、通る家々の窓ガラスはめちゃめちゃに割れていた。
その子を家に届け、自宅に戻ると、誰もいなかった。家の裏にあった防空壕(ごう)に行くと、祖母が避難していた。幸い、家族や家に被害はなかった。
夜、訪ねて来た役場の職員から「爆弾が落ちて長崎は大惨事。炊き出しを手伝って、おにぎりを作ってほしい」と言われ、近くの酒屋へ向かった。おにぎりを作っていたが、間に合わず、そのまま米と梅干し、たくあんを大八車に積んで道ノ尾駅まで運んだ。
体が焼けたりさまざまなやけどを負ったりした人たちが「助けてください」と声をかけてきた。とても怖く、駅に着くと米を渡して、すぐに走って戻った。その夜は、恐怖で眠れなかった。
翌日からは、近くの学校で負傷者の治療を手伝った。長崎から次々にトラックで負傷者が運ばれてきた。あちこちから「水をくれ」と言われたが、「水はだめです」としか言えなかった。
数日後、治療に当たっていた5人の軍医が終戦を理由に突如、帰ることに。私は思わず「患者をほったらかしにして帰るのですか」と問い詰めた。はらわたが煮えくり返る思いだった。
<私の願い>
私はいまでも治療に関わったあの時の自分を誇りに思っている。しかし、戦争や原爆のような悲惨なことは二度と起こってほしくない。当時のことは忘れたくても忘れることができない。悲しくてつらくて苦しい思いを若い人たちに味わわせたくない。世界の人たちが平和でいることを祈っている。