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私の被爆ノート

思考停止で感情なく

2015年12月24日 掲載
種吉 保(83) 種吉保さん(83) 爆心地から2キロの長崎市八千代町で被爆 =島原市新山4丁目=

当時は旧制瓊浦中(長崎市竹の久保町)の1年生で12歳。8月9日は試験があった。午前11時2分は、下校で戸町の家に帰る途中。八千代町で電車の中にいた。今思えば、危ない関門を二つか三つ擦り抜けた。

以前は浜口町に住み、城山国民学校に通っていたが、1944年7月に戸町に引っ越していた。試験は2科目だった記憶があるが、1時間早く帰らされたようだ。2科目も試験を受けていたら、11時ごろ八千代町にいなかったと思う。

同級生の吉永と学校を出た。梁川橋でばったり会った友達と立ち話をしていると、吉永は先に行ってしまった。友達と別れ、浦上駅前の電停まで行った。だが、なぜ行ったのかが分からない。というのも私は当時、歩いて登下校していたからだ。電停にはずらっと人が並んでいて、先頭に立っていた吉永が「種吉」と呼んだので、厚かましくも先頭で電車に乗った。八千代町のガスタンクの手前でストップした。架線故障で作業員がはしごに乗って修繕していた。

そのときだった。製鉄所の溶鉱炉に投げ込まれたような感じ。音は聞こえなかった。目と耳をふさいで伏せていると「あれ、何ともないな」と思った。次に考えたのはガスタンクに直撃弾を食らったということ。それなら無事でいるわけはないと思い、下車して走り長崎駅前の防空壕(ごう)に飛び込んだ。奥から「すいません、棒がありませんか。うちの息子の膝ががくがくになっております」と聞こえたのを覚えている。壕を出て、さらに走りだしたが悲惨な状況はあまり見ていない。駅辺りで道の真ん中に馬がひっくり返っていたので腹の上を乗り越えた。

11日に呼び出されて学校に行くと、亡くなった先生の遺体を鉄板の上で焼いていた。思考停止の状態なので、その光景を見ても「かわいそうに」という気持ちにはならなかった。

<私の願い>

最近読んだ本に「過激派組織『イスラム国』(IS)」に核兵器が渡る日が必ず来ると書いてあった。米国は「戦争を早く終わらせるために原爆を落とした」と言うが、理由があれば核兵器を使えるというのであれば、ISも使うだろう。米国はおわびして、核兵器を廃絶すべきだ。

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