当時26歳。警察官だった夫の秋穂は戦時中はほぼ家に戻れず、2歳になる長男の順志を1人で育てていた。
9日の朝。薬に使うという松の木の油を採るため、順志を背にからい、婦人会のみんなと目代町の山に登った。竹で油を採っているときだ。
ピシャー。
突然さく裂音が響いたかと思うと、電光のようなまぶしい光が差した。びっくりした私たちは何が起きたのか知りたくて、一目散に走って山を下った。
婦人会の集会所になっていた諫早国民学校(現在の市立諫早小)に行くと、長崎から来た無数の負傷者が運び込まれていた。校舎の中に入ると、人が焼けたようなにおいが鼻を突いた。順志は駄々をこねるように泣き叫んだが、かまう余裕はなかった。
教室や廊下に横たわり、あちこちで「水を」とうめき声を上げる負傷者。校舎内に医者はいない。婦人会の私たちも、医学の知識はほとんどなかった。とにかく出血を止めようと、服の布を引き裂いて負傷者の体に巻いたり、血をタオルで拭いたりした。
突然、夫が現れ、「傷口に塗ると手当てになるだろう」と馬の油を渡してくれた。夫は、警察官として負傷者が運び込まれた場所を回り、油を渡しているという。効果は分からなかったが、言われた通り、油を少しタオルに浸して、傷口に当てるなどした。
日が暮れると、負傷者の傷口から大きなうじがわいてきた。無心で手で払いのけたが、うじは次から次に出てきて、消える気配がなかった。
順志にごはんを食べさせることができず、おむつも替えてあげられなかった。不満と恐怖で泣き叫ぶ順志の声と、負傷者のうめき声が校舎に響く中、頭はもうろうとしていたが、懸命に手当てを続けた。9日は家に帰れず、校舎でそのまま夜が明けた。
<私の願い>
今も静かな夜に、負傷者の顔や、あの日の惨状を思い出す。必死に手当てをしたのに、多くの人は死んでしまった。私たちの苦労はなんだったのか。亡くなった方があまりにもかわいそうで、なぜこのようなことが起きたのかと思う。とにかく恐ろしくてたまらなかった。二度とあってはならない。