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私の被爆ノート

血や汗染み付いた校舎

2015年12月10日 掲載
重野 孝介(84) 重野孝介さん(84) 諫早駅で救護被爆 =雲仙市愛野町=

当時13歳。旧制諫早中(現・県立諫早高)2年生だった。1945年5月から学徒動員のため諫早市内各地の工場で働いた。原爆投下当日も、諫早駅西側の丘の途中にある半地下の工場でジュラルミンを磨いていた。

昼前、おそらく爆風と思うが屋根がビシッと鳴る衝撃があった。近くに爆弾が落ちたと思った。様子を見ようと丘へ駆け上り、近くの畑で作業をしていた男性に「爆弾か」と尋ねると、長崎の方角を指さした。ちょうど、きのこ雲がもくもくとわき上がっていた。昼休みに弁当を食べ、本明川で泳いで過ごしていると、黒い雲が広がって太陽が赤く見えた。

作業を終えた夕方、帰宅しようと諫早駅に行くと、長崎から負傷者を乗せた救援列車が到着するところだった。車内には大勢のけが人が床に寝ていて皆、無口だった。そんな人々を近くの病院や学校へ荷車などで何度か運んだ。赤ちゃんを連れた女性はホームに降ろされたが息絶えていた。

帰宅しようと乗り込んだ島鉄車内は、他の人と肌が触れ合うほど混雑しており、けが人の皮膚が自分にもくっついた。

長崎市城山地区で暮らすいとこが亡くなったと聞き、17日ごろ母と出掛けた。市内は一望千里の焼け野原。工場の煙突が、台風が通った田んぼの稲穂のように倒れていた。いとこの夫と会い、亡くなったいとこに手を合わせた。

その後、授業が再開された。2階建て木造校舎の廊下や講堂などは、けが人でいっぱいだった。ある朝、屋外のいすに腰掛けて自分の体に付いたうじ虫を退治していた男性を見かけたが、放課後、そのままの姿で亡くなっていた。

冬が近づき、学校にいた負傷者は収容の余裕ができた病院へ移っていった。校舎のあちこちの床には血や汗がこびりついていて、いくら掃除しても落ちなかった。

<私の願い>

われわれが子どものころは「平和のための戦争」と言われていた。現在もだんだんとそんな時代になっていきそうな雰囲気を感じている。パリ同時多発テロでは一般市民が巻き込まれたことにショックを受けた。原爆でも一般市民が被害を受けた。どう間違っても武力という手段をとってはいけない。

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