中ノ瀬房子
中ノ瀬房子(82)
中ノ瀬房子さん(82) 爆心地から1・5キロの長崎市家野町で被爆 =長崎市泉2丁目=

私の被爆ノート

きょうだい4人亡くす

2015年12月3日 掲載
中ノ瀬房子
中ノ瀬房子(82) 中ノ瀬房子さん(82) 爆心地から1・5キロの長崎市家野町で被爆 =長崎市泉2丁目=

当時11歳。旧姓小笹。両親ときょうだい7人の一家9人で暮らしていたが、原爆できょうだい4人を亡くした。戦時下の厳しいながらもにぎやかな生活を一瞬で奪われてしまった。

あの日は、朝に発令された空襲警報が解除され、隣家の友達と家野町の自宅の中で遊んでいた。突然ドーンという鈍い爆音と地響きがして、ピカッと閃光(せんこう)がきらめいた。

驚いて外に飛び出すと、浦上の方に黒いきのこ雲がもくもく上がっていた。家が倒壊しなかったので、幸いかすり傷で済んだ。隣家の火が自宅に燃え移り、父が懸命に消火した。はだしのまま走り、自宅近くの墓地に逃げ込んだ。住吉の畑にいた母も無事に戻ってきた。

近所で遊んでいた9歳の弟・忠は重度のやけどを負った。母が自宅裏の防空壕(ごう)で忠をみて、私は3歳の弟・安治を連れて住吉の防空壕へ逃げた。中は負傷者のうめき声と、腐敗したような悪臭に満ちていた。空からサーッと真っ黒な雨が降るのを壕の中から見た。とても怖かった。

翌日家へ帰ると、忠の手足の皮がべろりとむけ、赤い肉が見えていた。傷にうじ虫がわき、母が取っていた。忠は「マリア様、助けてください」と懸命に祈りながら11日に息を引き取った。

15歳の姉・節子は学徒動員で三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で働いていた。後に聞いた話では、背中に大きな木材が刺さった姿で逃げ惑っていたらしい。工場が燃えてしまい、遺体は見つからなかった。13歳の兄・悟も学徒動員で三菱重工長崎造船所大橋部品工場に行っていた。仕事をしていた機械の下に骨が焼け残っていた。

7歳の弟・清春は近所で遊んでいたようだ。住吉神社の下まで逃げて力尽きたらしく、誰かがそこに埋めてくれていた。後に遺体を掘り返し、墓に埋葬した。

<私の願い>

死んだきょうだいたちを思うと今でも泣く。子どもたちに自分の体験を伝えようと思ったこともあったが、つらくて話せなかった。戦争やテロのニュースを見聞きするのが一番嫌だ。この世から核兵器と戦争が消えてほしい。願いは世界平和。みんな仲良くすることが何よりも大切だ。

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