木村多美子
木村多美子(75)
村多美子さん(75) 爆心地から1・4キロの長崎市竹の久保町3丁目(現在の淵町)で被爆 =長崎市江の浦町=

私の被爆ノート

生後10カ月の弟亡くす

2015年11月26日 掲載
木村多美子
木村多美子(75) 村多美子さん(75) 爆心地から1・4キロの長崎市竹の久保町3丁目(現在の淵町)で被爆 =長崎市江の浦町=

当時5歳。長崎市の淵神社近くで母と姉、生後10カ月の弟修(おさむ)と暮らしていた。旧姓津村。父は負傷兵で福岡県久留米市の病院にいた。

空襲警報が解除され、防空壕(ごう)から出て家の前で友達と遊んでいた。姉は弟をおんぶしていた。「ブーン」という飛行機の音。男の子が「敵機が来た」と叫ぶと、ピカッと強い閃光(せんこう)が走った。耳を押さえ家に飛び込み、気付くと真っ暗。全壊した家の下敷きになり動けず、痛くてたまらなかった。

近くで仕事をしていた母親は半壊した建物から自力で脱出。淵神社前の通りで「子どもを助けて」と呼びかけたが、やけどを負った人ばかり。「どうにもできない」と言われたが、何とか近所の人を捜しだし真っ先に姉と弟を掘り出した。私は自分の名前を呼ぶ声が聞こえたので「ここにおるよ」「痛かとよ」と叫び、やっと救助された。姉は天井のはりに右足を挟まれ大けが。私も頭から血を流し血だらけだった。

火薬庫が近くにあり、火が燃え移ると危ないため、山奥に逃げて一晩過ごした。翌日、祖父母が暮らす稲佐地区の防空壕へ避難した。弟は色白でかわいかったが、打撲による内出血で紫色になっていた。救護所で薬を付けてもらったが、13日に息絶えた。祖父らが木箱に納めて火葬した。

15日、祖母の実家がある島原に避難するため長崎駅に向かった。私が弟の遺骨を抱き、祖父が動けない姉を背負った。途中、米軍機が低空で飛んできてすごく怖かった。満員の汽車に乗り込み、夜中に島原に着くと、精霊流しをしていた。

久留米で「長崎は全滅。覚悟して帰れ」と宣告された父は長崎に戻る途中の21日、諫早駅で、島原から長崎に向かっていた母と偶然再会。その時、父から第一声で「修は?」と弟の安否を尋ねられたことを、母は「本当に悲しかった」とよく話していた。

<私の願い>

核兵器が一向に減らない。どうしてなのか疑問に思う。一番大きな国が一番核兵器を持っている。原爆が二度と使われない世界にしてほしい。原爆で亡くなった人の分まで世の中の役に立ちたい。被爆体験を活字に残すことで、若い人に一人でも多く読んでもらい、関心を持ってもらえればと思う。

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