桐谷 甫
桐谷 甫(86)
桐谷甫さん(86) 入市被爆 =対馬市厳原町椎根=

私の被爆ノート

黒焦げの死体 無数に

2015年11月5日 掲載
桐谷 甫
桐谷 甫(86) 桐谷甫さん(86) 入市被爆 =対馬市厳原町椎根=

当時15歳。西彼香焼村(現在の長崎市)の川南造船所で働いていた。仕事は鉄板や鉄骨の加工。工場近くの寮の一室に3人で生活していた。

あの日は工場にいた。空襲警報が解除されて防空壕(ごう)から戻り、仕事に取り掛かろうと思っていたころだった。

稲光のような、電気がショートしたようなまばゆい光で周囲が真っ白になった。窓に駆け寄って外を見ると、耳をつんざくような爆発音。爆風で窓ガラスは粉々に吹き飛び、鉄の窓枠が曲がってしまった。同じ部屋にいた女子挺身(ていしん)隊や男性作業員ら10人ほどと近くの防空壕へ逃げた。げたを脱いで、はだしで走った。

しばらくして防空壕から出ると、炎で空が赤く染まり黒煙が上がっていた。翌日までは工場の後片付けに追われた。

11日朝、長崎市内へ救護に向かうことになった。同僚と船で渡った大波止の近くには、倒壊したり焼け焦げたりした家がまだ残っていたが、長崎駅の近くは焼け野原だった。道路も、爆風によるがれきだらけで歩くのも大変だった。

徒歩で城山方面へ。城山町一帯は、魚を焼いたように真っ黒に焦げたり、皮膚がむけてうじ虫がたかったりした死体が数え切れないくらいあった。小さな子どもや学生の死体が、道の脇にいくつも重なっていた。数人がかりで死体をトラックに積み込む作業を1週間続けた。自分たちがやるしかなかった。

15日に玉音放送をラジオで聞いた。音声が悪かったが、戦争に負けたことだけは分かった。数日後、作業をしても給料ももらえないので古里の対馬に戻ろうと長崎を離れた。汽車や船を乗り継ぎ、船上からようやく厳原港を見たとき、「ああ、やっと家に帰れる」とほっとした。自宅に着くと母が「よく帰ってきた」と喜んでくれた。家族は私のことを死んだと思い込んでいた。

<私の願い>

戦争中はいつもおなかをすかせていた。3食腹いっぱい食べられることはなかった。原爆は町ごと焼き払い、数え切れない人の命を奪った。原爆も戦争もこの世からなくしてほしい。そのために悲惨さや恐ろしさを若い世代に伝えることが大切だと思う。憲法9条の平和主義を守らないといけない。

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