被爆当時はまだ3歳と幼かったため、記憶というより、衝撃として体に刻み込まれている。両親や姉、国鉄に勤めていた兄らと長崎市稲佐町で9人暮らしだった。出征していた長兄はこの年の3月、乗っていた輸送船が東シナ海で撃沈されて戦死したと聞いた。
食品店を構えていた父は9日の朝から、警防団の仕事で町内の見回りに出掛けていた。家には母と二人だけ。「ピカッ」と強烈な閃光(せんこう)とものすごい爆音が響いた。外を見ようとすると、母からテーブルの下に引っ張られ、隠れた。
家は大きく揺れ、爆風で倒れた家具などで室内は散乱。母が昼食のために作ってくれて、食べようと楽しみにしていたおにぎりも吹き飛ばされてしまった。母に手を引かれ、近くの防空壕(ごう)へ。逃げる途中、崩れた建物のがれきが町じゅうに散らばっていた。私はガラスか木片で足をけがした。今も傷痕は消えていない。
防空壕へ入った後のことはほとんど覚えていない。数日後、室内が散乱した自宅に戻り、使えそうな物だけをリヤカーに積んだ。その後、滑石に住む父の知人宅に、家族で間借りしたのを覚えている。警防団で町内の後片付けなどに毎日奔走していた父は、やがて体調を崩し寝たきりになった。5年後に亡くなったが、父の被爆を本当に理解したのは、後にラジオなどが症状を伝え始めてからだった。
私は教師の道に進み、上五島に赴任。26歳のとき、島で結婚した。だが、夫や周囲の人に対し、「自分は被爆者」と打ち明けることはできなかった。差別されることが怖かったからだ。
結婚して約10年後、勇気を出して夫に伝えた。一つだけ悔やんでいるのは、子や孫たちに原爆の悲惨さを語り継ぐために、親、きょうだいから被爆当時の話をもっと聞いておくべきだったということだ。
<私の願い>
「被爆者はがんになりやすい」などとのうわさに、今も毎日が不安。被爆者である兄の子が48歳の若さでがんで亡くなり、影響があったのではないかと考えることも多かった。原爆は子や孫の世代まで苦しめ続ける。子どもたちの未来のためにも、手を取り合って平和な世界を築いてほしい。