長崎市城山町1丁目の2階建ての一軒家に母、叔母とその3人の娘らと暮らしていた。私は当時8歳、城山国民学校の3年生だった。1941年に父が亡くなり、2歳年下の妹は浜口町の親類の養女になった。
8月9日は、隣の家の同じ年ごろの姉妹と、近くの梅の木の下で遊んでいた。飛行機が飛んできたので見上げると何やら黒い物体を落としたのが見えた。ピカッと光ったと思った瞬間、3人とも爆風で吹き飛ばされ、梅の木の下敷きになった。
どうにか脱出し山手に逃げたが、気付くと右半身に大やけどを負っていた。一晩を過ごし、自宅近くの防空壕(ごう)にたどり着いたところで動けなくなった。壕内で姉妹の一人が亡くなった。
三菱長崎製鋼所(茂里町)で働いていた母は体にガラスの破片が刺さり長与の救護所に運ばれたが翌日、子どもが心配で長崎に戻った。浜口町の親類宅は灰じんに帰し、母は妹の遺骨代わりに焼け跡の土を容器に入れて持ち帰った。
自宅の外で洗濯物を干していた叔母は全身に大やけど。母らは叔母や私をリヤカーに乗せ、新興善国民学校の救護所へと向かった。
救護所はけが人であふれ、足の踏み場もなかった。叔母のやけどはひどく、傷口をはい回るうじ虫を母が小枝で取り除いた。叔母が亡くなり、母が火葬をして戻ったところ、叔母の一番下の娘が息を引き取った。次から次に亡くなっていく。まさに地獄だった。
数日後、五島・久賀島の伯父宅に身を寄せることに。私はほとんど意識がなかった。「苦しい」とうわ言のようにうめいていたという。寝たきりの生活が続いたが、しばらくして尻の辺りの腫れ上がった部分からうみのようなものが一気に流れ出した。「原爆のガスがたまっていたのだろう」と母は後日、話していた。今でも傷口の痕がくぼんでいる。
<私の願い>
母は戦後、出征していた叔母の夫と再婚。4人の弟妹が生まれたが、1956年に原爆症で亡くなった。義父も壊疽(えそ)で両足を膝上から切断し、働けない体になった。 戦争はいろんなものを奪ってしまう。子や孫、ひ孫に私と同じような思いをさせたくない。平和な時代が続いてほしい。