当時は旧制長崎中に通う14歳。海軍の試験を受けるため、「軍人学級」に入っていた。
母と弟、妹たちは島原に疎開。三菱重工長崎兵器製作所大橋工場(現在の文教町)に勤務する父、祖父母と大浦日の出町の自宅で暮らしていた。あの日は朝、警戒警報があり、登校せず自宅で待機。午前11時前、自宅の外に出ると、大浦国民学校(上田町)が立つ山の上で何かが光りながら落ちていくのが見えた。今思うと恐らく米軍が原爆の威力を測定するラジオゾンデだったのだろう。
落下物が民家の屋根に隠れ、見えなくなった瞬間、ぱっと黄色い光がひらめいた。すぐ近くに爆弾が落とされたと思い、目と耳をふさぎ、口を開けた状態で地面に伏せた。音は聞こえなかったと記憶する。
しばらくして、顔を上げると、電柱は折れ、民家の屋根は吹き飛び、風景は様変わりしていた。
何があったのか興味があり、東山手の丘を登ってみると、浦上方面が燃え上がり煙だらけになっていた。「大変なことになった」。自宅に戻り、祖父母と父の帰宅を待った。だが父はなかなか帰らず、祖父が捜しに行ったが見つからなかった。
翌日、祖母や親戚と郊外に避難するよう祖父に言われた。向かう途中、魚を焼いたように皮膚がめくれた負傷者と何人も擦れ違った。蛍茶屋まで歩いたが、祖母が「これ以上歩けない」と言い、結局引き返した。
数日後、父が憔悴(しょうすい)した様子で帰ってきた。工場で負傷した同僚や部下と救援列車に乗り、諫早まで行っていたという。終戦後、父は脱毛や歯茎の出血に悩まされた。幸い72歳まで生きることができたが、家族は柿の葉を煎じて飲ませたりするなどして心配した。周囲でも助かった人たちが原因不明の症状で死んでいった。気の毒で仕方なかった。原爆の最も残酷な側面の一つだった。
<私の願い>
自分の被爆体験は過酷なものではないのであまり語ってこなかったが、その後の技術者としての人生には深く影響を与えた。原爆は科学技術の最悪の側面。もろ刃の剣ともいえる科学技術が方向性を誤らないように、進歩させ、社会に貢献していくことが技術者の使命だと思っている。