馬場 英子
馬場 英子(85)
馬場英子さん(85) 爆心地から1・5キロの長崎市幸町で被爆 =長崎市矢の平2丁目=

私の被爆ノート

両手上げ逃げる捕虜

2015年10月1日 掲載
馬場 英子
馬場 英子(85) 馬場英子さん(85) 爆心地から1・5キロの長崎市幸町で被爆 =長崎市矢の平2丁目=

当時15歳で、長崎市立高等女学校の3年生。学徒動員で、三菱長崎造船所幸町工場の木造2階建ての総合事務所に詰めていた。窓からは工場内の収容所にいた外国人捕虜も見えた。

8月9日午前。戦況の悪化からか、この日も仕事があまりなかった。「少し早めだけど、お昼ご飯にしようか」と7~8人が集まり、弁当箱を開けようとした瞬間。青白い閃光(せんこう)に目がくらんだ。気付いた時はうつぶせで、崩れた事務所の下敷きになっていた。目の前は真っ暗で、大声で助けを求めていたのだろう。工場の男性が木材をどけて、引きずり出してくれた。左足の内側のくるぶしに擦り傷ができた程度で済んだ。

工場内の建物はほとんど崩れ、鉄骨や木材が埋め尽くしていた。電車通りでは、馬車の馬が倍に膨張して倒れており、あっけにとられた。万歳か降参か意味は分からないが、10人ほどの捕虜が両手を上げ、何か叫びながら逃げていた。

近くの聖徳寺の下にある防空壕(ごう)に向かった。中にはけが人が20人ほどいて、入りきれなかった。同じように入るのを諦めた数人にくっつき、金比羅山の方面に逃げた。途中、捕虜が畑のキュウリを食べているのを見た。

山頂付近で長崎の町を見渡すと、自宅がある

中川町方面は燃えていなかったが、幸町工場の辺りはすでに火の海。助け出されていなかったらと思うと、ぞっとした。 大きく遠回りし、新興善国民学校に着くころには夕方になっていた。擦り傷に消毒液を塗ってもらう中、けが人が次から次に運ばれてきた。

その帰り、自宅近くの橋で母と妹と再会。母は「(工場がある方向の)浦上は全滅と聞いて、もうだめかと思った」と言い、抱き締めてくれた。

15日の玉音放送。日本は勝つと信じていたが、この時ばかりは妙な安心感を覚えた。

<私の願い>

戦争は大人のエゴで起きるが、罪のない子どもたちまで犠牲になる。私は40代で胃がんになり、摘出手術を受けるなど苦しい思いをしてきた。被爆から70年たち、記憶が年々薄くなっている。それでも、平和のためにできることをしようと思い昨年、被爆者団体に入った。戦争はもう絶対に嫌だ。

ページ上部へ