長崎市家野郷(当時)で義父母、義妹、2歳の娘と暮らしていた。23歳だった。8月9日午前、高台の自宅近くの畑で牛の飼料となる草を刈っていた。移動しようと草の束を担いだ時、B29の音がした。その瞬間、後ろからの爆風で吹き飛ばされ、畑の溝に落ちた。けがはなかった。起き上がると、義父が「長崎が火の海になっている」と言いながら走ってきた。
高台から街を見渡した。燃えていて、煙などで真っ黒だった。まるで太陽が焦げ落ちてしまったように感じて怖かった。自宅の様子を義父と見に行くと、全焼していた。飼っていた牛は、人を見つけたのがうれしかったのか飛ぶように走ってきた。しかし3~4日して死んでしまった。
娘と義母、義妹は無事で、山の裏の防空壕(ごう)にいた。その壕に負傷した人々が押し寄せた。義父母と義妹は、裏山に置いていた非常用の布団を持って、どこかに行ってしまったため、娘と2人、小さな壕に移って過ごした。
10日、滑石にいた義弟が来たので一緒に、焼けた自宅に戻ってみると、9日に煮ていたイモをみつけた。ふたの上に泥をかぶっていたがイモは無事だった。3日間は、それだけを食べて過ごした。しかし、娘が空腹のせいでものを言えなくなってしまった。これは大変と思い、現金を持って義弟と長与駅に買い物に行ったが、物々交換でなければと言われ、ジャガイモ一つ売ってくれなかった。その後、西山の水源地付近で缶詰が配給されると聞いて、もらいに行った。でも缶詰では空腹は満たされなかった。
川平の実父が、おにぎりを届けようと3日間続けて来てくれた。しかし、いずれも途中でさまざまな人に「めぐんで」と言われ、全てあげてしまい、私の元には結局一つも届かなかった。ずっとはだしでいたため、まめだらけになった足の裏は、いまだに痛む。
<私の願い>
被爆した当時は服も食べ物も何もなくて、はだしで歩いていた。よくここまで生きてこれたなと思う。70年たったけれど、原爆が昨日のことのように感じて怖い。二度とこのようなことは起きないでほしい。平和であることが一番だと感じる。ただ、それだけを願い、毎日神様を拝んでいる。