長崎市の平戸町(当時)で、7人きょうだいの長女として生まれ育った。県立長崎高等女学校を卒業後、三菱長崎兵器製作所で給与を振り分ける部署に勤務。1945年8月からは旧城山国民学校(現・市立城山小)校舎の一部で給与の業務に当たっていた。
9日は、校庭で掘りかけていた防空壕(ごう)を整備していた。空襲警報が鳴り、同僚たちと壕へ避難した。どれくらいたっただろうか。「飛行機が見える」という誰かの声が聞こえ、同僚が様子を見に次々と壕の外へと出て行った。私は、飛行機は空襲で見慣れているし、いまさら見に行かなくてもいいと思い、動かなかった。この判断が運命を分けた。
次の瞬間、言葉にできないような大きな音と振動、爆風が襲った。壕の電球は割れ、辺りは真っ暗になった。足元がおぼつかないため、その日は壕内で過ごした。「ううっ」とうめく人々が次々と真っ暗な壕内に逃げ込んできた。うめき声はすぐにやんでいった。
翌日の昼、外に出てみて、何が起きたのかを悟った。校庭は無数の遺体で埋め尽くされていた。全身が黒く焦げた遺体。体は裂け、男女の区別も分からない。腐臭が周囲に漂っていた。
自宅へ帰ろうと思ったが、遺体で足の踏み場もない。断腸の思いで踏み越え、「南無阿弥陀仏(あみだぶつ)」と唱えながら歩いた。普通の精神状態ではなかった。
建物が破壊され、方角も分からなかったので、鉄道の線路などをたどって自宅を目指した。道中の情景はよく覚えていないが、胸に去来したのは悲しみや怒りではなく、「私は運が良かった」という安堵(あんど)感。人は極限状況ではわが身が一番かわいいのだろう。
平戸町の自宅は倒壊していたが、家族は佐賀の伊万里に疎開していたため助かった。数日後、私も伊万里へ向かった。
<私の願い>
原爆の惨状を見て、戦争の残忍さを痛感した。戦争だけは本当にだめだ。もしまた戦争が起きれば、もう今の自分は精神的、体力的に耐えきれないだろう。世界中の人々が、自分のことだけでなく、他の人のことを思いやることができれば、戦争は起きないのではないかと思う。