快晴の朝。北高高来町(当時)の実家近くの小江駅で午前7時34分発の長崎行きに乗り、長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)に出勤した。午前9時すぎに着いた途端、空襲警報。防空壕(ごう)へ避難したが程なく解除となった。
22歳で第2外科(古屋野外科)の助手。外来の1人目の診察が終わり看護師が次の患者を呼ぶため診察室を出た瞬間、黄色い閃光(せんこう)が走り落雷のような音が聞こえ、伏せた。周囲は暗くなった。明るくなってきたので起き上がり、机の下にいた古屋野教授と窓から外庭に出た。皆、穴弘法山の洞穴に向かっていた。その一団に加わり30メートルほどの崖をはうように登った。途中、白衣姿の学生数人が息絶えていたが何もできなかった。
頭から出血していることに頂上で気付き、白衣を破って止血。浦上一帯を見下ろしていると、付属病院と城山国民学校から黒煙が上がり、ものすごい勢いで燃え始めた。大粒の雨がポツポツと降りだしていた。
再会した学生2人、看護師3人と西山越えをして蛍茶屋へ。道中、2人の兵隊が上半身裸で、空に銃を向けたまま死んでいた。皮膚はそがれ落ちていた。米軍機が飛んでおり不安だった。蛍茶屋は、がれきの山。以前診察した日見の藤原さんの世話になろうと向かい、一夜をそこで過ごした。
翌朝、5人と分かれ、諫早市栄田町の母の実家に歩いて向かった。夕方ごろ到着すると、祖母は幽霊じゃないかと体を触り、涙を流して喜んだ。
玉音放送の2~3日後、付属病院が気になり汽車に乗った。ガラガラの下り列車とは対照的に反対側の上りは超満員。進駐軍が長崎に上陸するとのうわさが流れ、長崎を離れる人たちだった。病院を見て回ったが壊滅状態。新興善国民学校や諫早海軍病院などを転々としながら、ガラス片が刺さった患者の診療、治療を続けた。
<私の願い>
当時、戦争は勝つものと思っていたが、原爆投下という悲惨な形で、終焉(しゅうえん)を迎えた。日本、外国など区別なく、地球人として世界の平和を考え、戦争を繰り返さないようにしなければならない。異文化理解は難しい面もあるが、互いに認め合い、助け合う心が必要だ。