石原 貞子
石原 貞子(78)
石原貞子さん(78) 入市被爆 =長崎市宿町=

私の被爆ノート

叔母救った母の優しさ

2015年9月3日 掲載
石原 貞子
石原 貞子(78) 石原貞子さん(78) 入市被爆 =長崎市宿町=

当時8歳。8月9日は長崎市矢上町の自宅で遊んでいた。ふと空を見上げると、探照灯のような明るい光が見えた。「変なの」と思った瞬間、爆風が吹き、紙切れや布きれが落ちてきた。後で「長崎に大きな爆弾が落ちた」と母から聞いた。

終戦を伝える放送は聞いていないが、母に「兵隊さんたちは一生懸命働いた。戦争は終わった」と教えてもらった。16日、祖父の身を案じた母、弟と、爆心地に近い竹の久保町まで歩いた。祖父は無事で、家には大けがを負った親戚たちが身を寄せていた。「痛い」といううめき声が夜通し響く。次々と亡くなっていく親戚の遺体を、家の裏で祖父が焼いた。

自宅に戻って数日後、ぼろぼろの衣服を身にまとった女性がつえにすがるようにして歩いてきた。叔母だった。市内の兵器工場で被爆し救護列車で早岐駅に運ばれたが、十分な治療を受けられず、線路沿いを長崎まで戻ってきたという。

腕の傷口にはガラスの破片がいくつも刺さったままで、うじ虫もわいていた。養護教諭だった母が「痛かったね、かわいそうね」と声を掛けながら、叔母の傷口にたまったうじ虫を一つ一つピンセットで取り除いていく。うじ虫を入れる容器を手に母の隣に座り、その様子を見詰めた。

何年かたったころ、叔母は「お母さんはね、小さいあなたたちがいるのに、少ししかない白米を、けが人の私に食べさせてくれたとよ」と教えてくれた。食べ物がなく苦しい時代でも、思いやりの気持ちを忘れない母の優しさを感じた。

入市被爆が原因かどうかは分からないが、母は20年ほど前、膵臓(すいぞう)がんで亡くなった。入院中、叔母から電話で「母校の稲佐小で被爆体験を語る」という知らせを聞いた母は「つらい経験を、子どもたちに話せるようになるなんて」と涙を浮かべていた。

<私の願い>

戦後70年が過ぎたけれど、集団的自衛権など不安は募るし、悲しい事件も多い。国民が心から望んでいるのは平和。どんな決断にも、平和を思う気持ちが根底にあってほしい。歌うことが好きで、病院などで高齢者の方々と歌っている。「生きていてよかった」と思えるような人生にしたい。

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