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私の被爆ノート

焼け残った腹巻き

2015年8月27日 掲載
江口 輝子・下(83) 江口輝子さん(83) 入市被爆 =長崎市愛宕3丁目=

8月11日、長崎市浜口町の叔母の家付近に到着した。周辺の建物は全て爆風に吹き飛ばされ、整地されたよう。叔母の姿は見当たらず、近くの畑にふと目をやると、ぽつんと転がっている一体の死体がある。近づいて間近で見てみると、ほとんど“黒い固まり”。叔母だった。

辛うじて左足付近は形が残っており、足の付け根辺りに約5センチの見覚えある布の切れ端を見つけた。私と叔母のために母が着物の帯で作ってくれた腹巻きだった。

腹巻きの端を引っ張ると、背中側に続いていた。腹巻きには叔母の名前入りの預金通帳と現金200~300円が包まれていた。強烈な腐臭が染み付いていたが、それでも形見として五島に持ち帰ることにした。

その後は一人でどうしていいか分からず、泣きながら周辺を歩き回っていたと思う。夜は叔母の亡きがらのそばで寝た。

13日。県庁坂を歩いていると、同じ奈留島出身で2、3歳年上の三浦綾子さんと出会った。銅座町にあった三浦さんの下宿に泊めてもらった。翌日、三浦さんに協力してもらい、浜口町で叔母の遺体を火葬した。

15日。遺骨を拾うため同町に向かう途中、長崎駅近くに人だかりができていた。ラジオから日本の敗戦を伝える玉音放送が流れていた。

この日から島に帰るため三浦さんと2人、大波止の船着き場で船を待ち続けた。出港予定も分からないままに。18日に長崎工業学校の上級生数人が木造漁船を調達。当時の乗船料の相場は2~3円程度だったが、求められたのは30円。叔母が残してくれた現金で払うことができた。

夜通しの航海で翌朝、船は間違って平戸に到着していた。全く知らない土地を前に「朝鮮に連れてこられた」と思い、泣いた。

20日夕、やっと奈留島に戻ると家族や親戚が喜んで迎えてくれた。ただ、叔母の通帳と遺骨を祖母に渡すと、祖母は「どうしておまえは死んだの」と叫び、それを部屋の中に投げ付けた。自分だけが生き残って帰ってきた罪悪感を強烈に感じた瞬間だった。

「てるちゃん、てるちゃん」-。髪も服も乱れた叔母が、夢の中で何度も“迎え”に来た。その恐怖は終戦から1年くらい続いた。

<私の願い>

食べ物もえんぴつも満足になかった戦時中に比べ、今は幸せ。平和な世の中が続いてほしい。戦争の本当の悲惨さは体験した人でなければ分からない。今の新安保法案の動きを見ると安倍晋三首相をはじめ、戦争を知らない人たちが決めていっている気がする。昔の世界に戻るのではないかと少し怖い。

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