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私の被爆ノート

黒焦げの3遺体運ぶ

2015年8月6日 掲載
松尾 明光(84) 松尾明光さん(80) 爆心地から3・2キロの長崎市川平町で被爆 =長崎市川平町=

当時、西浦上国民学校4年生で10歳。川平の自宅近くで兄と遊んでいた。午前11時ごろになって家に帰ろうとした時、青白い光が背後から差し込んだ。気が付くと爆風で数メートル先の畑に吹き飛ばされていた。山向こうの浦上の空に、赤黒く光る雲。急いで家に駆け戻った。

浦上には伯母(母の姉)2人が岡町と城山町に住んでいた。午後9時ごろ、岡町の伯母の夫、佐藤さんが包帯を巻いた痛々しい姿で私の家に来た。佐藤さんは長崎刑務所浦上刑務支所(爆心地から300メートル)横に家があり、伯母と一人娘の3人暮らしだった。

佐藤さんの話では勝山国民学校近くに出掛けていて、家があった場所に戻ってみると黒焦げの遺体が3体あった。伯母と娘とすると、あと1体は誰か分からない。「(1人では運べず)やむを得ず遺体を置いてきた」と涙ながらに話した。

すぐに母や佐藤さんとリヤカーを押し、岡町へ。灯火管制で明かりをともせなかったが、家々が燃えていて道脇に並べられた遺体が目に入った。

岡町に着いたのは、午後10~11時くらいの間。燃えるものは燃え尽きて、暗闇の中に小さな火が点々とくすぶっている。高かった刑務支所のコンクリート壁も崩れ、動く人は他にいない。静けさが辺りを包んでいた。佐藤さんが黒焦げの3体を石油缶に納め、リヤカーに積んだ。

帰宅は午前0時すぎ。遺体は仏壇前に並べた。どれも手足が無く、真っ黒に炭化。地蔵のようだった。目があったところは暗くくぼんでいた。今になって思えば、原爆の熱線で瞬時に水分が蒸発してしまったのだろう。

佐藤さんは11日にも「妻の歯型と似ている」と言って、別の黒焦げ遺体を持ち帰ってきた。朝夕、計4体に読経し、「一緒に死ねばよかった」とつぶやいていた。

一方、城山町の伯母の消息は、とうとうつかめなかった。

<私の願い>

25歳で結婚し、子ども3人、孫5人に恵まれた。2008年、被爆体験を孫たちに語り継ぐため手記を書いた。原爆は世界を破滅させる恐ろしい兵器。子孫には二度と戦争を体験させたくない。各国には核兵器を造らない、持たないことを求めたい。いつまでも平和な日本、世界であるよう願う。

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