「ぼさっとしてないで勉強しなさいよ」。夏休みなのに母がそういうので、しぶしぶ2階の窓際にある机に向かった。実家は本石灰町で料亭を営んでいたが、家族で鍛冶屋町に疎開していた。当時、長崎市立高等女学校1年で13歳。
窓から、屋根に上って作業をしている男性を眺めていると、突然まぶしい光が差し込み、気づいたら吹き飛ばされていた。何が起きたのか分からず、夢を見ているような感覚だった。
1階にいた母と2人で家からはい出して、寺町の晧台寺に向かったが、防空壕(ごう)はけが人で満杯。いったん家に戻り、外出していた父のために「墓にいます」と書き置きを残して、寺の上にある墓地を目指した。昼すぎに父が戻ると、石塔と木に蚊帳を張って一晩過ごした。
翌日、女子挺身(ていしん)隊として浦上方面の兵器工場にいた姉を捜しに行った。道中、焼け焦げた人や死体が転がっているので、父が「目をつぶれ」と言う。どこがどうなっているのかさえ分からず、諦めて墓に戻ると、あわと麦の混じったおにぎりをもらった。「白いご飯を腹いっぱい食べたか」と心底思った。
3日目の朝、ボロボロになった姉が幽霊のような姿で現れた。墓にいても仕方ないので、全員で両親の実家がある平戸市に避難することにした。道ノ尾駅から汽車で佐世保駅までたどり着き、そこからは船で平戸に向かった。敵機に見つからないように、屋根にわらを積んで、何度も止まったり蛇行したりするので、津吉港まで何時間もかかった。
平戸に着いたころから髪の毛が抜け始めた。爆弾が近所に落ちたわけじゃないのに不思議だった。柿の葉が効くと聞いて炊いて飲んでいた。
それ以来、髪の毛が抜けるのが恐ろしく、この年になるまでパーマや髪を染めたことは一度もない。
<私の願い>
飛行機の音が聞こえると恐ろしくて身体が過敏に反応する。墓で寝泊まりしていたことは今でも忘れられない。今の世の中は衣食住の全てがぜいたくになり過ぎた。食べたくても食べられずに亡くなった人もいるのに何だか申し訳ない。感謝の気持ちを大切に、人の命も自分の命も大事にしてほしい。