灘 真治
灘 真治(82)
灘真治さん(82) 爆心地から2・0キロの長崎市稲佐町2丁目(当時)で被爆 =南島原市口之津町甲=

私の被爆ノート

裏も表も分からぬ死体

2015年7月23日 掲載
灘 真治
灘 真治(82) 灘真治さん(82) 爆心地から2・0キロの長崎市稲佐町2丁目(当時)で被爆 =南島原市口之津町甲=

疎開のため長崎駅へ向かった8月13日早朝。稲佐橋からの道中、原爆に遭った遺体があちこちに転がっていた。死臭が鼻を突く。遺体を焼く遺族の姿もあった。列車に乗り、浦上駅で無造作に積み上げられ、折り重なった無数の死体を見た。13歳の私には、全て強烈すぎる光景だった。

9日は、配給の行列に並んでいた。近所のみそしょうゆ店で丼と米穀通帳を手にし、次が私の番-という時に閃光(せんこう)が走り、爆風で店内へ飛んだ。数分後に意識が戻ると床に掘られた空の貯蔵庫(深さ約1・5メートル)の底にいた。一緒に落ちた高齢女性がうめいていたが、私は自分だけ脱出して旭町の自宅へ戻ることで必死だった。

はだしだったが、町を埋める瓦やがれきをとにかくよじ登り、走った。「どんな爆撃? どこに、何発?」。恐怖と不安に駆られながら帰宅し母や叔母(母の義妹)、1歳のいとこに再会。安堵(あんど)の後、くぎが刺さった足裏の激痛に気付いて抜いた。

大勢の住民は稲佐国際墓地を通り稲佐山中腹へ避難。私らも食糧など持って登った。倒れた黒焦げの人のそばを通る際、足首をつかまれぎょっとした。水を求められたが、「やったら死ぬけん」と叔母。私は振りほどき、また歩き続けた。

山で身を潜めて座り、燃える市街地を木々の間から眺めた。県庁の立派な骨組みがくっきり浮かんだ。ガスタンクの爆発音も2回響いた。

11日、消息不明だった叔父と稲佐署近くの防空壕(ごう)で会えた。右半身に熱線を浴びながらも無事。私は炊き出しのご飯やおかず、みそ汁を腹いっぱい食べた。

疎開で佐賀県の叔母(母の実妹)宅に1カ月いた。ほぼ爆撃のない山間部だが、私はトラックの音を敵機と勘違いして防空壕へ避難。異常に怖がる姿に、幼いいとこたちは無邪気に笑っていた。

<私の願い>

被爆後20年以上、原爆の映像を最後までは見れなかった。旧制中学で習った先生が白血病で40代で亡くなり、私もその年になって「自分もいつ死ぬか」と不安だった。嫌というほど身に染みた恐怖を若い人に味わってほしくない。私らの世代が今のうちにもっと声を上げ、継承しないといけない。

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