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私の被爆ノート

薬も包帯もなく治療

2015年7月16日 掲載
橋口 フデ(93) 橋口フデさん(93) 西彼時津村(現時津町)で救護被爆 =西彼時津町浜田郷=

当時は両親と私の3人家族。私は県立高等女学校専攻科を卒業した後、佐世保の高等女学校の教員を1年で辞め、家族3人で父の実家である時津村浜田郷の渡辺家に間借りして暮らしていた。

原爆が落ちた時は、部屋で裁縫をしていた。光や音がしたかどうかは覚えていない。3、4歳ぐらいだったいとこの三女をそばで昼寝させていたので、夢中で抱きかかえ、庭先にあった防空壕(ごう)に走り込んだ。家にいたら危ないととっさに思ったのだろう。防空壕の中で親戚のおばさんが一生懸命お経を唱えていたのを覚えている。

家は山の陰にあったため、ガラスが割れるなどの被害はなかった。その後、近所の萬行寺に被爆した人が運ばれてきたということで、看護役として婦人会の会員が動員され、私は夕方から寺に出向いた。その時まで長崎がどのような状況かは知らなかった。

本堂いっぱいに患者が寝かされていて、焼け焦げた臭いがした。近所で開業していた中国人の何(か)先生という医者が1人で治療に当たっていた。素人なので何をしたらいいか分からないし、薬も包帯も赤チンもない。「しっこ」と言われた時にしびんを持っていくくらい。水をやれば死ぬと言われたので水を求められてもやらなかった。かわいそうだと思う気持ちは通り越し、泣いたりする余裕はなかった。9日は一晩中そこにいたと思う。

それから何日か萬行寺に通った。「どうせ死ぬならお母さんのところに帰って死にたか」としきりに言う患者がいたのをよく覚えている。学徒動員された久留米の学生だった。亡くなった後、住所や名前を聞いておくべきだったと思った。

死んだ人は消防団の人が担架に乗せて左底に運んだと聞いている。思い出すのも恐ろしい体験。長崎に落ちたのが原子爆弾だということを知ったのはその後のことだった。

<私の願い>

戦争のない世界であってほしい。戦争はしてほしくない。デイケアに行って会う人は、同じ意見の人ばかりじゃないけれど、お互いけんかをしないように、言いたいことを言わなかったりして妥協し合い、平和に暮らすように努めている。国と国も私たち個人個人と同じようになればいいと思う。

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