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私の被爆ノート

列車内 血の臭い充満

2015年7月3日 掲載
中野 隆三・下(85) 中野隆三さん(85) 爆心地から1・5キロの長崎市西郷(現在の西町)で被爆 =佐賀県伊万里市朝日町=

西郷寮は1時間ほどですべて燃えてしまった。ぼんやり眺めていると、焼け跡の方向から同級生の一人がこちらに逃げてこようとしているのを誰かが見つけた。「牟田君じゃないのか」。数人が様子を見に行ったが、しばらくすると「目玉が飛び出ていて駄目だ」と言って戻ってきた。

心細くなっていた私たちの所に、「伊万里商業生は集まれ」と別の同級生が走ってきた。集合場所は寮と三菱兵器製作所大橋工場の間の防空壕(ごう)。足を引きずりながら壕まで行くと、避難者でいっぱいだった。だが、同級生は半数しか集まっていなかった。軽傷者がしばらく付近を捜した後、先生が「ほかの生徒は寮に戻るかもしれない」と言うので再び寮の焼け跡に戻った。

寮裏手の壕に行くと、負傷者と遺体でいっぱいだった。その壕で、午後4時ごろに大橋工場近くの踏切に救援列車が来ると聞き、丘を越えて線路を目指した。丘の上で、鉄骨と煙突だけになった大橋工場が見えた。その瞬間、「日本は戦争に負けるんだ」と初めて思ったが、口にすると「非国民」と言われそうだったので胸にとどめた。

照円寺(現在の清水町)前の踏切には多くの負傷者が集まっていたが、1台目の列車は満員。私たちは午後6時ごろに来た2台目に乗ることができたと記憶している。車内は、皮膚がただれたり血を流したりした負傷者で、すし詰め状態。生臭い血の臭いが充満して吐きそうだった。途中、空襲から逃れるため、トンネル内でしばらく停車。列車内に血の臭い、蒸気機関の煙、熱気がむっと押し寄せ、地獄だった。

私の前に、女性が小さな子どもを背負って座っていた。トンネルを抜けたとき、女性は背中の子どもを抱きかかえ、名前を何度も叫びながら体を懸命に揺すり始めた。だが、その子が呼び掛けに応じることはなかった。それを見たとき、初めて涙があふれた。

早岐まで列車に乗り、鉄道病院に運ばれ、手当てを受けた。すでに深夜3時ごろ。警防団から白米のおにぎりを2個もらって食べた。夢にまで見た白米の味は本当においしかった。

朝、列車で古里伊万里へ。車窓から平和な街を眺め、夏の朝の涼しい風を感じたとき、ようやくほっとした。

<私の願い>

伊万里商業学校の同級生は長崎原爆で13人が死亡した。生き残った被爆者に対する差別や偏見もあった。子どもたちや戦争を知らない世代には、平和は当たり前のものではなく、尊いものだと知ってほしい。絶対に戦争をしてはいけないし、日本が巻き込まれるようなことがあってはならない。

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