当時は旧制海星中2年で、14歳だった。あの日は、何かの当番があり、朝から登校していた。校舎で友人と話していると、強い光が差し込み、目の前が真っ白になった。爆音や爆風の記憶は残っていないが、壊れたガラス戸の破片が校長に刺さり、負傷していたのを覚えている。青空は見る見る暗くなり、「新型爆弾が落ちた」という声を聞いた。
鍛冶屋町で仏具店を営む自宅に急いで帰った。家族9人は無事だったが、屋根の瓦がごっそり吹き飛んでいた。「ここは危ない」と、上小島地区に家を借りて、避難した。
借家へ向かう道中、顔や体が焼けただれ、フラフラと歩く血まみれの人と何度もすれ違った。何が起きたのか理解できず、恐ろしい思いがした。借家は小高い場所にあり、火事で燃えた県庁舎が何日もくすぶっているのが見えた。
1週間後に自宅に戻った。戦争は終わり、地元商店では「じきにアメリカ軍が来る。女や子どもは何をされるか分からん」という不安の声が続々と出た。母や姉妹は網場町へ再び逃げた。
仏像を作る仏師の父は、近くの寺に出ずっぱりだった。長男の私は店番を任された。お客さんからは、売っている位牌(いはい)に「戒名も彫ってほしい」という要望が増えた。本来は印鑑職人がする仕事だが、原爆の死者が多すぎて間に合っていなかった。
筆で文字を書き、父の道具を使って彫った。見よう見まねで、最初は「自分が彫っていいものなのか」と申し訳ない気持ちもあった。しかし、ひっきりなしに頼まれるようになり、無我夢中で戒名を彫り続けた。
爆心地に足を運んだのは、終戦から10年ほどたってから。同じ被爆者として早く行くべきと感じていたが、恐ろしい記憶が邪魔をした。「自分はひきょう者だ」。時々、そんな思いにさいなまれる。
<私の願い>
敗戦直後は暗い時代だったが、学校の音楽部に入り、歌うことで救われた。今も歌謡教室を営んでおり、人を楽しませることが生きがい。誰かに喜びを与えるために生きれば、それは平和につながる。最近は隣国との関係も悪いが、国民同士が楽しく交流を続け、互いの理解が深まってほしい。