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私の被爆ノート

焼けただれた母の姿

2015年6月11日 掲載
伊藤 孝(78) 伊藤孝さん(78) 爆心地から0・9キロの長崎市城山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市立岩町=

警戒警報がいったんは出たと思う。「家の近くにいたら逃げる場所がないから外で遊んでいなさい」。母からこう言われ、立岩町周辺の山へ姉や弟たちと向かった。

当時、城山町で家族で暮らしていた。城山国民学校の1年生で、8歳だった。

遊んでいると飛行機の音がしたので、急いで防空壕(ごう)へ向かった。壕に入ろうとした瞬間。「ピカッ」と、鉄を溶接する時のような光が目に飛び込んできた。爆風でそのまま壕の奥へ15メートルほど吹き飛ばされた。

気が付くと、目の前を黄色いガスのような煙が雲海のように充満し、周りが全く見えなかった。大人が「下にしゃがまないと煙で先が見えないぞ」と叫んでいた。体をかがませながら壕の出入り口の方へ。外へ出たが、周囲の森が燃えていたため、壕に引き返した。

壕に逃れてきた人たちの中に母の姿を見つけた。自宅から自力で来たらしい。体中、焼けただれ、傷だらけだった。

おにぎりを松山町の浦上川付近で配っていると聞き、取りに行った。首が取れたり焼け焦げたりした死体の上を歩いた。浦上川では「水、水」と言いながら、傷ついた人が川面に顔を突っ込んでいた。多くの人が折り重なり、川の流れが止まってしまうほどだった。

しばらく兄や姉たちと壕で暮らしたが、「アメリカ軍が上陸してくる」という情報が流れてきたので、小菅町の親戚の家に行くことになった。瀕死(ひんし)の母は置き去りにした。その時はつらさよりも、母を見ることが恐ろしくてたまらなかったことを覚えている。

親戚に引き取られた後、原爆の後遺症に苦しんだ。1カ月ほど40度近い熱が出て、体中に発疹が出た。病院に行くことができず、ドクダミ草やカキの葉などを煎じてお茶代わりに飲んでいた。効き目があったのか、体調は良くなっていった。

<私の願い>

原爆の後遺症で、今でもたくさんの薬を飲んでいる。早く後遺症を治せるような、新しい技術ができればいいと思う。 戦争で苦しんだ人たちはたくさんいるが、私は原爆で親きょうだいを亡くしたことが一番つらかった。戦争はいろんなものを奪い去ってしまう。戦争だけは絶対にやってはならない。

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