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私の被爆ノート

人が化石のように

2015年6月4日 掲載
宮田美千子(80) 宮田美千子さん(80) 爆心地から0・7キロの長崎市城山町2丁目(当時)で被爆 =諫早市小長井町小川原浦=

家業は築町通りの玩具問屋。住家兼店舗で家族暮らしだった。新興善国民学校に通っていたが、1945年6月ごろ強制疎開となり、城山町2丁目(当時)の新築中の自宅近くに祖母と私、7歳の妹、5歳の弟が、油屋町に両親と12歳の姉、6カ月の妹が住んでいた。

城山国民学校5年で10歳だった。私と妹は近所の友人宅で朝から勉強。11時近くになり、父が自転車で油屋町から迎えに来たのが窓から見えた。「お父さんが来たから帰るね」。そう言って玄関に向かうため家の奥に入った瞬間。薄いオレンジ色の月のようなものがピカッと一瞬見えた。音は聞いていない。崩れた家屋の下敷きになった。

しばらく意識を失った。外から声がしたので助けを求め、体を動かすと壁土がザラッザラッと落ちてきた。友人の兄が引っ張り出してくれた。曲がったはりの下に入り込んだおかげで、押しつぶされずに済んだ。友人宅が焼けなかったのが不思議なくらい、辺りは焼け野原。幾重にも命に縁があったのだろう。妹は無事だったが、友人は全身やけどでその日に亡くなった。新築中の自宅は倒壊した。

近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと祖母と弟がいた。運び込まれた父は125ものガラス片が背中に刺さっていた。丸1日意識不明だった父は10日の昼前に意識が戻り、「油屋の家が心配だから見に行く」と言うので一緒に向かった。地獄だった。馬は立ったまま目玉を出していて、電車の中では人が鈴なりに化石のようになっていた。怖いという感情はなかった。

油屋の防空壕で母、姉、妹と再会。母は「よかったよかった」と泣いて喜んだ。本紺屋町(当時)にあった父の玩具倉庫は焼け落ちていた。「美千子。何にもなくなったけど、みんなの命が助かっていれば、また働けばいいんだよ」。父がそう言ったことを覚えている。

<私の願い>

一度でもひどい不安を受けると、一生取れない。今でも稲光が怖いのは原爆のせいかも。親きょうだいを亡くした人には、憎しみだけが残る。戦争も原爆も人間が始めたものだから、やめることもできるはずだ。高校生が将来を考え、核兵器廃絶を訴える姿がうれしい。平和を守り続けてほしい。

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